私の死ぬまで日記 19.5日目
おはようございます、と言っても一睡もすることが出来ませんでした。
今の感情を形に残しておきたいので適当に書き連ねようと思う。
全然関係ないですが、「しくじり先生」という色々な芸能人が自分の人生のしくじりを語って反面教師になる、というバラエティ番組がある。たまたまYouTubeを見漁っていたら出てきた水沢アリーさんのしくじり授業をなんとなく見てた。彼女はローラさんの第2世キャラとして目上の人に噛み付いたり色々と計算して自分のキャラを作っていくうちに自分を見失ってしまったそうだ。
彼女が「整形して高いカバンを買って幸せなはずなのになぜ幸せではないのだろう」と言っていた。わかる、めちゃくちゃ分かる。私も整形をした時そう思った。私は昔大嫌いだった元彼に「心の整形しろよバカ」と言われたことがある。何言ってんだこいつ、って思っていたけれどなんか今その言葉の本意が分かったような気がする。
心の整形をして内面を磨いてから外見を磨かなければもっともっとという欲が湧いて一生自分のことを認めてあげられないままの状態に陥る。一旦不完全な自分を認めてあげることが大切だと言っていた。なるほど。こんな浅い言葉しか思いつかないがとても腑に落ちた。不完全な自分を認めてあげることはとても難しい。私は現に出来ていない。
彼女は心の整形をするために必要なことは全てのものに愛を持って接することだ、と言っていた。不完全な自分を認めてあげること、それも全てのものに愛を持って接することに含まれると思った。自分を愛せないと他を愛することなんてできない。難しいけど当たり前のことだと思った。
コロナの自粛期間、躁鬱が激しく昼夜逆転して、過食嘔吐を繰り返し大好きな彼氏にも振られ、沢山自分のことについて考えてこれまでにないぐらい辛い時間を過ごした。これまでにないぐらい、というか確実にこれまでになかった。毎日自分を取り巻く周りや生まれながらの境遇、運の悪さを恨んだ。割と自分のことについてはいつも考えているがこんなにも自分のことで悩み、絶望し、諦めようって思ったことがなかった。
でもこの時間がなかったら私はきっと本当の意味で反省することが出来ずまた同じことを繰り返し、その度に周りを恨み境遇を恨み一生幸せになれなかった気がする。確実に幸せになれなかった。綺麗事のようだし私自身学生の部活動などでありがちな「辛いこともあったけど乗り越えられて乗り越えたからこそ今がある」みたいな風潮は嫌いだし寒いなと思っていたが、それを初めて感じた。まだ幸せ、というゴールに辿り着いた訳では無いが。この時間って私にとって必要だったのかな、と思った。
精神病は甘え、は今までの私にとても適合している言葉であった。精神病だからしょうがない、と自分に言い聞かせていた。大事なのは精神病だからこそどう自分を捉えどう向き合っていくかなのに最初から諦めていた自分が馬鹿らしいと思った。人より生きづらいし生きづらいという事実が理不尽であるし恨めしいことだが、生まれてしまったのだからしょうがないと思った。
自分と向き合って他人と向き合って一生懸命考えて考えて沢山経験してそれでも無理だった時死ぬ資格があるのだろうか。そんな頃には寿命で死んでいる気がする。
どうしても鬱状態の時は死への意識がすごくどうしようも出来なくなってしまうが、一度行動に起こす前に立ち止まって今日の日記を読み返そうと思う。それだけでどんなに突発的な自殺願望に襲われてもあと3年は死なない気がする。分からないけど。