私の死ぬまで日記 48日目
こんばんは。今日も夜勤、といっても終電までですが時間が空いたので早めに書いておこうと思います。上手くまとめられないが自分の意見に対する反応を求めたり返事を催促したりすることなく自由に書き連ねられるこの場は1日の中でとても落ち着くものになっている気がする。
今日は午前中から動いてバタバタしていたためお昼過ぎに長めの昼寝をしてしまった。何だかずっと集中力もなくレッスンもうわの空、といった感じではあったが私にとって午前中に動くことが出来たという事実が嬉しかった。学校が始まっても何となく昼夜逆転してしまい毎日毎日を後悔して過ごしているが、今日は少しだけ自分を肯定してあげられる気がする。
そして夕方は週に一度の通院だった。入院の件も認められて診断書を作成してもらった。一度完全に休む期間は必要だと再認識した。
でも、「そんなに毎日悩んでるけどあすぺ(仮)はどうなりたいの?」と聞かれたら分からない。摂食障害を治したい。躁鬱病を克服したい。全てマイナスからゼロになる話である。マイナスからゼロになることは健常者と同じスタートラインに立つことだと思う。ここ数年病気に悩ませられるばかりでゼロからプラスのことを何も考えていなかった。治ったら何がしたいだろう。普通にご飯が食べたいはもちろんだがそれってプラスではなく当たり前のことのような気がする。私前なことほど幸せなのだろうか。漠然と「幸せになりたい」「報われたい」そんなもんでいいのかな。何も見えないな。目標、何だろう。私にとってのゴールは何だろう。ゴールを達成した時は死んでもいいかな。その時には死に対する執着はなくなっているのだろうか。
私は適当に生きることが出来ない。色々ずっと考えてしまうし完璧主義。完璧に出来ないのであれば0になってしまう。0か100で生きている。とても生きづらい。適当に済ませればいいことを細かく考えてしまう私の悩みは周りから見たらとてもめんどくさいし「適当にしとけよ」で片付けられてしまう。私にとっての幸せって適当に生きることなのかもしれない。適当に生きることが出来たら死にたい。死んで頑張った自分を労わりたい。
この日記を今カフェで書いているのだが、bgmでたった今クライスラーの愛の悲しみが流れた。書きたいことがあったが一瞬書くのをやめた。ただの短調ではなく救済のように現れる長調は現在ではなく過去の回想に聞こえる。短調が現在。現在から見て「ああこんなに幸せだったな」と懐かしむ長調だから憂いを感じるのだと思う。私はこの曲が大好き。幸せだったな。また幸せになりたいよ。
明日も明後日も死ねないけど死ねないから後悔のないように生きよう。堕落した自分を認めよう。自分を好きになれますように。夜勤に行ってきます。おやすみ。