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霜月という名の11月

11月の最後の週末。霜月というには暖かい。というか、私の今住むこの場所に、霜の降りる日はほとんど無い。


庭とも呼べない小さなスペースに、モルタルやコンクリートを練る時に使う「舟」と呼ばれるものを埋めて、そこに東京で共に暮らしていたアカヒレと1匹のシマドジョウの住むエリアを作ったのはもう6年前。そろそろここから去る前に、このスペースを埋め戻す作業をしなければ、、、とずっと思って今日。

「生き物を飼うこと、植物を自分の生活に取り込む」ということは、その最後の瞬間はどうするのかという、当たり前の現実がそこにはあって。誰かに貰ってもらうとか、そんな都合の良いことができない場合は、動物だろうが植物だろうが、自分の身勝手さをただひたすらに猛省して、その命を奪うということが待っている。枯れた植物を捨てる行為と、まだ緑々とした植物の根を鉢の中から捨てる行為と、こんなにも心に重く感じる違い。まだ手が付けられないでいる。

生き物の場合は更にハードルが高い。まずはほぼ放置状態になってしまっていた外の「舟」を片付けようと、覚悟を決めて網を外す。どのくらいアカヒレは生きているのだろうか?シマドジョウのしまちゃんは、もうきっと生きてはいまい。数が多かったらどうしようか。そんなことを思いながら、縦横無尽に生え広がったアナカリスの束を引き揚げる。水が透明になるのを待ってみると、アカヒレは2匹だけだった。

ごめん。なんにもしなかったね。途中からほぼ放置状態だった。敢えて餌をあげることもなく、それでも途中は何匹も新しい命が生まれていたのを知っている。生き物は「ちゃんと愛でる場所にいてこそ、飼っているということ」なのだと。自分に余裕がなくて、いつか無くすものだから放っておいてもいいというのは、その間も少しずつ殺していっただけなんだ。自分の罪悪感を減らしただけ。本当にごめん。

そう思いながらも、結局3階のベランダにあるメダカの鉢に2匹を移した。そう、結局私は今回もまたただ 先延ばし にしただけだ。

2匹でよかったな、みんなごめんね、君たちが大好きだったよと都合のいいことを思いながら、中に入った砂利を掻き出す。シマドジョウのしまちゃんは見当たらない。そりゃそうだ。もう15年も経つのだから。父が死んで相方と一緒に暮らし始めた時に飼ったのだもの。しまちゃんが勝手に星になるのを私は待っていたと思う。私の手では殺せない。これってすごく自分勝手で我が儘なことだってわかってる。それでもどうしようもなくそう思った。

砂利を掻き出して、とにかく中を空にして、大きな舟を処分するために今日中に洗ってしまおう。そう思いながらまずは完全に水を抜くために、砂利を少しずつ山のように端に積んでいった。

すると。
あ、いた。
しまちゃんが生きていた。
なんだか少し大きくなった?震災の時に家の中の水槽生活から外での暮らしになった時に曲がってしまった背骨が。なんと真っ直ぐになってる。どういうこと?それより何より、ねぇ、15年も生きてるの?びっくりしたよ。

結局即席の水槽を作って、2階の私の部屋の前のベランダに設置した。
もう、しまちゃんは連れていくしかない。
まだまだその日は先かもしれないけれど、生きている限り、しまちゃんは。
そしたら2匹の残ったアカヒレ君たちも、連れて行こうという気持ちになった。
(どちらもその日まで生きていたらだけどね)
メダカは相方のお義父さんが突然持ってきたものなので、まぁ、実家に帰ってもらうかな。どうかな。

いろんな気持ちの1日。
いつもそこに水を飲みにきていた猫の「ちびちび」と「さる」(近所の野良猫ちゃんに勝手に名前をつけている)が、すっかり無くなった水飲み場にキョトンとしている姿がおかしかった。
ごめんね、もう、ここで水は飲めないのだよ。


仕事もしてるけれど、着々と。
日々、片付けは続く。





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Shiho
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