藤原宮跡②
藤原宮跡②としていますが、まだ藤原宮跡にはたどり着きません。
とりあえず神社を見つけたら引っ掛かってしまうのが僕です。
畝傍都多本神社
奈良文化財研究所 藤原宮資料室の隣に読めない名前の神社がありました。
読めない名前とか珍しい名前の神社って惹かれません?
もちろんどの神社にも歴史があるのは承知しているのですけど、春日神社とか八幡宮とか何とか稲荷とかよりも、難しい漢字が三つ四つ並んでいる名前のほうがレア感を感じてしまいます。
とはいえ、読めないままだと不便です。
ウィキペディアで調べてみました。
「畝傍都多本神社」は「うねおつたもとじんじゃ」と読むそうです。畝傍都多本神社
以下文字起こし
此の神社は古く古事記上巻約千二百十年前 香山の畝尾の木本に坐す名は泣澤女神日本書記畝丘樹下所居神延式神名帳畝尾都多本神社鍬裁万葉集巻ニ或書の返歌(類聚林檜隈女王の歌であり)
石長比売神は長寿を司り泣澤比売神は命乞の神なり(平田篤胤玊襷)
春雨秋雨等語源的に澤女は雨に通す水神なり (本居宣長古事記伝)
カッコの位置とかアレですが、石碑の文そのままにしてあります。
畝傍都多本神社についての説明をそのままうぃきからパクってきますと、
祭神:
泣沢女神(なきさわめのかみ)
泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として祀られている。
歴史:
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、
哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご玉は高日知らぬ
(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているのに、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)
その左注に、
「右一首、類聚歌林に曰は桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」
と記されている。
これは、持統天皇十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇ることなかったという、泣沢女神を恨む和歌である。
この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代には既に存在していると考えられる。なお境内石碑には以上の万葉集の注に加えて、「泣沢売神は命乞の神なり」という平田篤胤の『玉襷』の一節と、「語源的に沢女は雨に通ず水神なり」という本居宣長の『古事記伝』の一節の引用が刻まれている。
1446年(文安3年)の『和州五郡神社神名帳大略注解』には 天香山坐櫛真命神社・坂門神社(天岩戸神社)・畝尾坐健土安神社とともに、「天香山坐四處神社」と称している。
延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山正倉」の遺構が周辺から発掘されている。
明治時代に社殿が再建された。
と、あります。
さすが奈良です。
ふらっと入っただけの神社にもすごい歴史があります。
ちなみにナキサワメ(泣澤比売、泣沢女神、哭沢女命)はイザナミがカグツチを産んで亡くなった時に泣いたイザナギの涙から生まれた神さまです。
少し前に読んだマンガ「天上の虹 持統天皇物語」の中で、殯《もがり》は死者の復活を祈る期間だと描かれていました。
医療の発達していなかった時代のことですから、一時的に仮死状態になった者が息を吹き返すこともあったかもしれず、これはありそうだなと思いました。
もしも殯の期間に死者の復活を祈っていたのならば、この畝傍都多本神社に祀られる泣澤比売命はとても重要な神だったのかもしれません。
拝殿に手作り感たっぷりにラミネート加工された境内社の一覧表が貼ってありました。
正直いって石碑や板碑の読みにくい字よりもこういうのが分かりやすくてありがたいです。
拝殿の裏に回り込みます。
本殿の前に小さな石段と狛犬がありました。
何とか本殿も写真に収めようとスマホを持った手を伸ばして撮影。
斜めになってるのはご容赦を。
この神社のご神体は井戸とのこと。
どんな感じだろうと、塀の隙間からしつこく本殿を撮ります。
ほとんど見えませんが、とりあえず井戸はあるようです。
水源を祀った神社は多いですが、井戸が神様というのも珍しい気がします。
これも立派な社だったので、本殿を囲う塀の隙間から撮影。
境内社に稲荷社を持たない神社はないんじゃないだろうかというほど、どこの神社にも稲荷社があります。
ここの稲荷社は小さいですが、社には素朴な風格が感じられました。
藤原京資料室
車で移動し、ようやく藤原宮跡へ。
藤原宮跡見学にはすぐ側にある藤原京資料室の駐車場が使えます。
資料室はJAの建物の二階です。
ちなみに建物の前の駐車場はJAの駐車場なので使えません。資料室の駐車場は隣にあります。僕は間違えました。
まずは資料室の中を見学します。
ストリートファイター(Ⅱですよね)と橿原市がコラボしているらしく、「日本国はじまりの国に会いに行く」という、なんにも上手くないコピーが。
もう少し考えようあったんじゃないかなーと思いますが、じゃあ何か考えてみろよといわれたところで僕にも何も思い付きません。自分ができない事をいうべじゃないですよね。
とか思ってたんですが、この資料室に限っていえば、このポスター以外何のコラボもしていませんでした。
資料室は二階にあるので、階段を上がります。
誰やねんこのゆるキャラたちとか思っていると、壁に紹介のポスターが。かゆいところに手が届く資料室です。
ゆるキャラにツッコミを入れるのは負けだと思っているのですが、さららちゃん(うののさらら・持統天皇)がドキンちゃんっぽいキャラだなと思いました。
藤原京を作った功績があるのに微ヒールな立ち位置なのかーと考えてしまいます。僕の考えすぎなんでしょうけれど。
展示は多くはありません。
ボランティアガイドのおじいちゃんが 哀れな犠牲者観光客のご家族に解説をされています。
藤原宮跡の後にも色々とまわりたい僕は、ボランティアガイドをしてもらうボランティアをする時間もないので、距離を取りつつ資料館内を見学します。
ジオラマになって山なども再現されると、藤原京の広大さがよく分かります。
あの古墳はあのあたりになるのかー、とか、大和三山はこんな感じの位置関係なのかーとか考えていると、ずっと見ていられそうです。
藤原京は日本で最初に造られた都城です。
天皇の居城と役所関係だけを設計したそれまでの宮ではなく、いわゆる碁盤の目のような道を作り、区画分けをするなど、都市のすべての設計をした計画都市です。
この碁盤の目の道路は条坊制といって、平城京や難波京、長岡京、平安京などで採用されていて、中国の都市をお手本にしています。
ただし外敵からの防護を考慮する必要がなかった日本の都市では中国のミヤコのような城壁は持たなかったようです。
で、今回見学に来たのはその藤原京の中にある藤原宮の跡です。
宮とはいっても、その面積は広大です。
なんとかボランティアガイドのおじいちゃんとは目を合わせないように距離と取りつつ、僕は資料館を後にしたのでした。
藤原宮跡
ようやく、藤原宮跡です。
といっても、ほとんど何もないんですが。
分かってはいましたが、ホントに何もない。
遠くに柱のオブジェが見えたので、そこを目指してみることにしました。
以下、解説サインの文字起こし
大極殿院南門
藤原宮の中心に位置する大極殿院南門は、発掘、調査により、東西約35m(7間)南北約10m(2間)の切妻単層で、南北に階段がついた基壇の上に建っていたと推定されています。
『続日本紀』によれば、701年(大宝元年)元旦、この門の正面には四神 (玄武、青龍、朱雀、白虎)と太陽、 月、 烏が描かれた7本の幡(旗) が掲げられ、その南の朝庭には貴族や新羅などの使節が整列して祝賀を述 べる儀式が行われました。 文武天皇はこの時、 「文物の儀、 ここに備われり」と都や法律など国家のすべてが完成してたことを藤原宮で宣言しました。
人は多くはなく、家族連れやボール遊びをする子供たちがちらほらいるだけです。
南門柱たちの奥には、木が数本茂っている場所があります。
他に目印もないのでそこに行ってみました。
位置関係的におそらくここあたりが内裏になるのでしょうか。
この場所に立ち、悠久の時の流れに想いを馳せ、遥か昔のミヤコの賑わいを聴き、持統天皇や文武天皇の想いを想像し…………って、できるかい。
いまやどう見ても、何もないすこーんと開けただけのただの原っぱです。
正直、ここにミヤコが建設されたといわれても、まったくイメージが浮かびません。
ただまあ、ビルもなく、遠くに山が見えるだけのひたすらだだっ広い風景なので、古代の人々が見た景色もこんなんだったのかなーとは思えました。
で、この後は桜井の方へ移動して、安倍文殊院やら古墳やら古墳やらをまわります。
もう藤原宮跡は関係なくなるのですが、同じ日にまわった場所として、藤原宮跡③として次にアップします。
もしよろしければ、お付き合いください。
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