地方民放TV局でコメンテーターをさせていただいた時のお話(1)。
2010年に「はじめての秋田弁」という、秋田県あるある4コマコラム書籍を出版した。
発売後、駅前の大型書店で同時期に発売されていた村上春樹の「1Q84」を売上で超えたことが新聞に載り、そこそこ話題となって地方民放TV局に取材をいただいたことがあった。
その縁からか、局のプロデューサーから表題のオファーを電話で受けた、というのが2011年の秋のことだった。
毎日新聞 秋田版 2010.6.2より
第一声は「は?」。
心の声かもしれないが、多分声に出ていたと思う。なかなか人生でこれほど呆気にとられた言葉が自然に発せられた場面というのは、この時以外思い出せない。
私はその時、地元のイベントに制作サイドとして参加しており、ばたばたしながらその突飛なオファー話を、心拍数が上がる音とステレオで聞いていた。
「じつは来週から、毎週金曜夕方5時前から7時までの「報道バラエティ番組」をスタートするのですが、その際にニュースや話題に対して受け答えできるゲストコメンテーターとして是非ご出演をお願いしたい」、
という旨の電話だった。
「えっ、ら、来週!?」
あまりに急なオファーと内容に、現実離れしていてふわふわした感じで受け答えをしていた私は、思わずこんな質問をせずにはいられなかった。
「ど、どうして私にそんなオファーを…?」
たぶん、声はかなり上ずっていたと思う。
「こばやしさんの書籍を読んだとき、お若いのに秋田についてとても造詣が深かったことと、そして秋田についていろいろ知られている、ということからです。そして以前取材させていた時に気づいたんですが…」
(なんだろう、なんか変なことしたっけ?)
「声がすごくいいんです、テレビ的にそこが気に入りました。」
「声?」(さっきの上ずった声はどうなんだろう…)
たしかに昔から、それこそ中学生時の変声期からよく言われてきた。
「小柄なのに声が渋い」とか「舘ひろしみたい」とか中学生の時によく面白がられたりして言われた。ちなみに私はユージ派だった。
まあ、ちょっと意外な理由だった。
先方も放送日まで時間がなく、返事を急いでいるようにも感じた。
来週はスケジュールもなく空いている。そんなことからも断る理由もなく、了承する旨をその場で伝えた。プロデューサーのテンションはMAXですごく感謝されたことからも悪い気はしなかった。
しかしイベントから帰宅後、今更ながらいろいろと頭をよぎってきた。
「受けてよかったのだろうか?」
それまでに何度かTVや新聞の取材、ラジオ番組への出演というのは体験したことはあったが、コメンテーターともなるとちょっと話は違う。基本、取材やラジオ出演は自分のやってきたことやその取材対象になる話に対し、終始受け答えすればいいだけなので、自分の得意な知ってる分野で話をすることがほとんどである。
しかし、TVの報道番組のコメンテーターともなると話はがらりと違ってくる。県内で起こったニュースや話題というのはそれこそ多岐にわたる。街中の声やどこそこのお店がオープンしたとか、といった身近な話題から、災害や県政、経済、事件、事故、スポーツといった、それこそ専門家でなければコメントに窮するテーマも多い。しかも生放送だ。リテイクなどはない。
発言は自分の責任として受け止めなければいけないので、迂闊なことは言えない。だけどありきたりのことしか言えない、のであればコメンテーターとして存在する意味がない。
そもそも私は前述した「はじめての秋田弁」を出版して、そこからぼちぼち39歳で事務所を立ち上げてからまだ半年。自分のキャリアもまだほとんどない。いや、それ以上に全県に放送される番組で、自分の得意分野でもないことをテレビで顔を晒してコメンテーター面(づら)して話す?
話し上手でもないし、話すのも得意な方でもないというのに。
冷静に考えれば考えるほど、圧倒的に場違い感がすごいことに気づき始める。しかもこの新番組は、毎週末ここのテレビ局で好評放映されている、県民誰もが知っている情報バラエティ番組の「看板女子アナウンサー」と「地元人気タレント」がメインキャスターだという。キラキラ感がすごすぎる。そんな方々とやりとりやコミュニケーションがうまくできるのか?。
ちょっとこの段階でプレッシャーが半端なくキツくなってくる。
でも、まあずーっとやるわけでもないし、いい経験だと思えばいいだろう、的に最終的には腹を括ることにした。
このあたりが私のよくわからんところである。まな板の上の鯉ではないが、なるようにしかならん、っていう思考。小心者のくせに、いざとなると腹を括る、いわゆる開き直るタイプなのだろう。
そもそも地方といえど、なかなかテレビ局内やスタジオに入る機会なんてまずない。そういったことに興味があったのも事実だ。
せっかくなので楽しくやらせてもらおう、という感じでポジティブに捉えることにした。まあ数回出演するくらいだろうし。
それがまさか8年も出演することになるとは、この時は知る由もなかった。