私の物語 前編

 私の初めの記憶は、温かい家庭とはほど遠いパチンコ屋の寮の狭い部屋の中だった。そこで一人ぼっちで一日を過ごすそういった少し悲しい記憶だ。
そんな私を不憫に思ったのだろう。景品交換所のおじさんが私の面倒を見てくれるようになった。はじめは新聞紙や竹を使ってのおもちゃ作り、景品のあまりのビーズのネックレス作りのせっとで遊んだりした。5歳ぐらいになるとおじさんと一緒に店の掃除をしたり、磁石を使って店の中のこぼれ球を集めたりするようになった。子ども心に人の役に立っているということが誇らしかったし、一人ぼっちで部屋にいるよりその方が楽しかったのだ。
 

 そういった私の思いとは裏腹に、ある日の晩に両親は荷物をまとめはじめ、明け方近くに眠い私を起こしてこう言った。
「逃げるぞ。」
訳が分からないうちに手を引かれ寮の狭い部屋を後にし、真っ暗な町を歩いていく。その時に
「おじさんにバイバイって言ってない」
と心の中で思いながら振り返ったがそこにお店の姿はもうなかった。
そう、生まれて初めて経験した夜逃だった。とても悲しいその町での最後の思い出だ。
 

 そこから各地を転々と流れていく生活だった。場所は変われど同じことは住む場所はパチンコ屋の寮でいつも私は一人ぼっちだったということ。そして、ある日、突然起こされて夜逃をしていくという繰り返し。自分がどこに向かっているのか、次の町はどこなのかそんなことを一言も聞かされず、ただただ手を引かれては町から町へと移っていくそんな子ども時代だった。


 年齢が上がるにつれてだんだんと自分の置かれている状況が分かってきた。なぜ夜逃をしなくてはならなかったのか?要は母親のギャンブルが原因だったのだ。給料日になると父親の分まで受け取って全部、ギャンブルにつぎ込む。生活に困ったら給料の前借をしてしのいでいく。前借の額が膨らんで限界にくると夜逃する。その繰り返しだということがだんだんと理解できるようになっていった。でも子どもの私にはどうすることもできない。ただ、狭い部屋で一人過ごすしかなかった。あのおじさんのように私にかまってくれる人は珍しい存在なんだと思うようになった。


 転々とした生活とは言え、義務教育の年齢になると学校に通わなくてはならない。しかし、学校という場所に私は馴染むことができなかった。理由はいくつかあると思うが、そもそも金がかかるということで保育所には行っておらず同じ年齢の子とどう接していいかわからなかったこと、そして夜逃で転々としているがゆえに友達との出会いと別れが急で関係作りを学ぶこともできなかった。我ながら相当に世間ずれした子どもだったのだと思う。


 また、家に友達を呼ぶこともできなかった。おもちゃなんてあるわけもなく酷い場合、寮の部屋に家具すらないので段ボール箱を食卓にしているような家庭だったから遊びにおいでということもできなかったし、それ以上に家に友達を呼ぶこと自体を母親は嫌がっていた。そんな家のことに腹を立てて母親にくってかかったことがあったが、叩かれ罵られるだけだった。今、思えばそれが引き金だったのかもしれない。以降、母親はギャンブルで負けて帰ると私を掃除機で殴ったり、酷い言葉を浴びせたりするようになった。特に子ども心に傷ついたのは
「あんたは生まれなければよかった。出来損ないだ。」
という一言だ。これは今でも夢に見る。つらい言葉だ。
 

 家での居場所もない私にとって馴染めないながらも学校にいる時間だけが何とか自分を保てる時間だった。勉強ができなくても友達がいなくても図書室で本を読んだり静かに過ごすことができたからだ。幸いなこととにわずかながら友達もできて少しづつ話もできるようになっていた。部活も吹奏楽部に入って初めてクラリネットにふれることもできた。私にとって唯一と言ってもいい学校の思い出だ。しかし、それも長くは続かない。何がきっかけであったのか未だに分からないが突然、男の子たちに汚いと言われるようになり、女の子たちからも無視されるようになっていく。それがどんどん広がって部活ですら先輩たちのあたりがきつくなって下手だけど好きだったクラリネットも続けることができなくなり、中学1年の終わりには不登校になっていた。それ以降、私に学校という場の思い出はない。一回も通うことなく15歳の3月末に卒業証書だけを学校に取りに行ったのが最後の登校だった。
 

 その間、私は家で一人ぼっちだった。母親がギャンブルに言っている時だけが落ち着ける時で負けて不機嫌な時、ギャンブルに行くお金さえない時、母親と部屋で一緒にいることが怖かった。叩かれる事や物が壊されることも酷い言葉も怖かったが私のものが次々と生活の犠牲になることがつらかった。増えすぎたともらってきたハムスターも姉が飼いきれないとおいていったモルモットも世話をしてきた私だったが、ある日突然いなくなった。
 「捨ててきた。」
と冷淡に放つ母親の一言が怖く逆らうことすら許されなかったが、一人でいる時そっと泣いた。それぞれに思い出があったし貧乏ながらも知恵を絞って世話をしていただけにショックだった。
 

 ほぼほぼ通っていなかった学校を卒業して、まず母親に要求されたことは働くことだった。とはいえ時代は不景気の真っ只中、大学生ですら就職できないと言われた時に中卒で雇ってくれるところはほとんどなかった。なんとか頼み込んでアルバイトから始めさせてもらった職場でもつらかった事の方が多かったように思う。なんせ私の給料が入る預金口座は母親に握られたままで給料日になるとごっそり持っていかれた。もちろん生活費のためではない。母親のギャンブルのためだ。酷い時には私の職場に連絡してきて給料が入金されるのがおそいと文句を言ってくることも少なからずあった。そのせいでクビになったのは言うまでもない。その後も似たような理由でアルバイトをクビになったが、それでも20歳ごろに派遣会社に登録し物流の仕事をするようになってくるときつかったけれど働きが評価され正社員にどうかという話にもなっていた。そして正式に正社員という話がでたその日に事件は起こった。
 

 父親が蒸発したのだ。少し時間を巻き戻すと父親はパチンコ屋の店長をまかされるまでになっていたが定年退職することになり新聞配達の仕事に転職していた。月に30万以上あった給料は半分以下になった。普通ならそれで軍資金が減って母親のギャンブルも減っていくかと思ったが、実際は逆だった。母親はそれまで以上にギャンブルにのめりこんでいった。減った給料の分を増やしてやると思ったのかどうかは分からないがお金に執着するようになって余計に家は荒れた。私も働いてある程度の給料が入っていると思っていたがすべて引き下ろされてしまっては確認するすべもない。給与明細すら出してくれないようないい加減な会社だったからだ。実際に母親以外だれも我が家の家計状態を知るものはおらず、その母親が最悪な選択をしているとは知りもしなかった。闇金で割と大きな金額を借りていたのだ。それを私は知らなかったが父親は知ってしまい、その日、新聞の集金で集めたお金をもってそのままいなくなってしまった。残された私と母親だったが、母親の言うまま手にもてる荷物だけもって風呂なしのアパートを飛び出した。闇金も父親の会社の人も怖かったがそれ以上にこれから私たちはどうなるのかどこへ行くのかそれを思うと不安で胸が押しつぶされそうだった。それがちょうど今から10年前の話だ。


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