私の物語 後編
近くの公園につくと私は相談所の緊急連絡番号に電話をしていた。だれでもいい話を聞いて欲しかった。当番の人に繋がって現状を手短に伝えると相談員さんが急いで私のところに来てくれてこの間まで泊まっていたビジネスホテルとは別の旅館に案内してくれた。とりあえずそこで一泊して翌日、迎えに来てくれると言う。詳しい話は明日聞くが、母親からの電話には出ずに待っていて欲しいと。念のため翌日、送迎に来る際に連絡を入れるが一人で勝手に相談所には来ないよう念を押された。そう聞くと部屋につくまでに大変なことをしてしまったのではと思い不安になった。そうして私はあまりよく眠れないまま翌日を迎えることになる。
翌日、午後の指定の時間に送迎が来ると連絡を受けた。うすうす予感していたことだったが、送迎の車の中で相談所に母親が血相を変えて乗り込んできたと聞いた。娘をどこにやったと怒鳴り散らす母親を相談所の人たちがなだめて、家に送ってくれたと聞いて今まで以上に母親に対して恐怖を感じ、同時に自分は母親のもとに戻った方がいいのかと思った。そんな思いを抱きつつ相談所につくと相談員の人が初めてあった時のように
「大変だったね。でも大丈夫だから」
と声をかけてくれた。泣きながら私はこれまで言い出せなかった自分のことについて話していた。各地を転々としていた子ども時代の事、親の都合で夜逃したりペットが捨てられたりすることが辛かった事、いじめを受けて不登校になった事、でも、家にいても母親が怖くておびえていたこと、母親がギャンブルにお金を使って生活が成り立たなくなってばかりだったこと、父親が出て行った本当の理由はそれが原因だったこと、自分が働いたお金もすべて母親が管理していたこと、そして昨日起きた出来事の一部始終。すべて話し終えて私の中でこんなにも言いたいことがあったとは思わなかった。それは相談員さんも同じように感じたようだった。
「あつよさん、それは虐待を受けていると思いますよ。」
そう言われたとき、私は少し罪悪感を感じた。私は長年一緒に居た母親を悪く言ってしまったのではないかと思ったのだ。後になって分かることだが、私は長期間、他者と関わることが極端に少なくて一種の洗脳状態にあったのかもしれない。つまり、私は出来損ないで世話を見ている母親のためにお金を稼ぐように仕向けられていたのだということだ。それでもその時は母親を一人にしてしまったこと、相談所の人に迷惑をかけてしまったということで家に帰るべきか真剣に悩んでいた。そんな私を察してか相談員さんがこう言ってくれた。
「あつよさん自身はどうしたいですか?お母さんのことは一先ず忘れて、あつよさん自身はどんな生活が送りたいですか?」
そう聞かれて私は一言だけ答えた。
「安心して暮らしたいです。怯えて暮らすのではなく、ただ安心して暮らしたいです。」
そう答えるので精一杯でどうしていいかは分からなかった。そこから役所の人を交えて相談をする事を勧められ私は役所へと相談員さんと向かうことになった。
役所では保護の担当のケースワーカーさんだけではなく、何人かの人がいたと思う。それぞれに紹介を始めたが正直、頭に入って来なかった。それでも集まった人たちは真剣に考えてくれた。実は母親が私の来る直前に役所にも乗り込んでいたと聞かされた。その行動が異常に映ったのだろう。私のこれまでの経緯をしっかりと聞いてくれると同時にいくつかの案も提示された。その中でDV被害者のシェルターに一時的に避難という提案が現実的ではないかという話になった。ただ私はその案に難色を覚えた。場所が同じ県ではあるものの遠く離れているということ、そして2か月間、外出も外部との連絡も一切が遮断されると言う点が不安だったのだ。1週間考える時間があると伝えられ役所を後にした。
それから1週間考えた。電話には出ないようにと言われていたので母親からの着信があっても出なかったけれど、何回か留守電にメッセージが入っていた。はじめの方は脅すような口調でそれが次第に弱くなっていき、最終的には泣きながら帰ってきてくれと懇願するようなものへと変化していった。それが私の心を揺さぶったのも確かだし不安で仕方なかった。相談員さんたちともたくさん話した。その中で印象的だったのは私の幸せということだった。これまで生活することや母親の機嫌の事ばかり考えていく中で私は自分自身のことを考えた事もなかった。自分自身のことを考えたことがなかったから一人で生活することも結婚して自分の家庭を作るということも想像することができなかったし無理だろうと諦めていた。でも自分が幸せになってもいいと初めて相談員さんに言われて私は考えるようになった。このまま母親と二人で生活しても多分、自分のしたいこともやりたいことも見つからない。だからシェルターに入ることを決めたのだ。相談所の人たちがいつでも相談においでと言ってくれた事がなによりの後押しになった。
シェルターの場所は色々あって言えないし、具体的な中の生活については書けない。入所している人を危険に巻き込んでしまうからだ。ただあの2か月間をもう一度、送りたいかと言われれば多分断ると思う。安全のためだと理解しつつも電話は一時預かりで外部と連絡はとれないし、生活感を出さないようにするために色々と制限もあった。ただ、私はただ時間が過ぎる事だけを考えていた。ここを出てもう一度、相談所の人たちと話がしたい。そう思って過ごした。いろんな人との面談が行われ、2か月後のある日、シェルターからそう離れていないところで部屋を借りて初めて一人暮らしを始めることになった。相談所の人たちとも連絡が取れて家具や雑貨をそろえるのを手伝ってもらった。久しぶりの再開に不安を感じていたが温かく迎えてもらえた事が本当にうれしかった。
それからの私にとって時間は目まぐるしく過ぎていった。なんせやることが大量にあったのだ。それと同時に自分がこういう形で一人暮らしをすることで普通の人とは違うのだということを何度か思い知らされた。住民票を移すことができないため銀行口座を作ることからまず躓いた。就職が決まりそうでも身元保証人を見つけることが難しかった。その都度、相談所の人に話を聞いてもらいながら時には同行してもらって手続きをしていった。そういった毎日を送って長い時間が過ぎたある日、緊張の糸がぷっつり切れてしまった。高熱を出して倒れたのちに病院送りになったのだ。発見してくれたのはたまたま近くを通って様子を見に来てくれた相談員の人だった。ただただ情けなかったし精神的なものだと言われてその思いは余計に膨らんだ。せっかく色んな人に助けてもらったのに私がしっかりしていないからこんなことになったのだと感じて辛かったのだ。
そんな時でも大丈夫と支えてくれたのはその時の相談員さんだ。気にかけてくれてよく訪ねてくれた。食事もおざなりだった私に料理を作ってくれたり、病院への通院がしんどい時に同行してくれたりもした。そしてまた時間が過ぎていつしかこの人と一緒に歩いていければいいなとなんとなく思うようになっていった。
あれから、もう6年が過ぎた。私がなんとなく望んでいた願いはなんと奇跡的にかなったのだ。でも決して平坦な6年間ではなかったし、私が精神的に不安定になりがちなため夫にも負担を敷いたのかもしれない。でも喧嘩をしつつも言うことを聞かせるのではなく、私がどうしたいのかを聞いていつも受け止めてくれた夫には感謝している。そして、やんちゃな息子にも出会えたことに感謝している。決して裕福ではないがそれでも私が望んでいた物が今、ここにある。辛く長い道のりの中でたくさんの出会いや奇跡があって今の私があるのだと思うとあの日、外の世界に飛び出したのは決して間違いなかった。
もし、つらく悲しい日々を送る人が今いるのであれば聞いて欲しい。扉はいつでも用意されている。だからその扉を開けてみてほしい。あなたを助けてくれる人はきっといるし、あなたの幸せもきっとあるはずなのだから。