見出し画像

【アンナ・カレーニナ 読書日記_3】草刈り仕事の本質

1/24(金)

 明日から台湾では「過年」と呼ばれる旧正月の9日間の休みが始まろうとしている。みんなが里帰りの準備をする中、僕は特に行くべき場所もないので、静かに家で過ごそうと思っている。これを機に、日々やろうやろうと思っていて、やれなかったことをまとめて片付けてしまいたい。例えば、部屋の掃除とレイアウト変更、読みたかった本を読み進めること、夏に行った韓国の旅行記を書き切ってしまうこと、2025年の目標を整理すること……など。趣味が多いのは良いことだとは思うけれど、なんでこんなにもやることが多いんだろうか。まあ、沢山あるけれど、止まらずにコツコツと進めれば、雪かきや草刈りと同様、一つ一つ片付いていくものだということは、さすがにこれだけ生きていれば分かっている。
 アンカレにも、そのような仕事の素晴らしさを伝える記述があった。

リョーヴィンは、時間の観念をすっかりなくしてしまって、今は早いのか遅いのか、まったく見当がつかなかった。彼の労働にはいまや転機が訪れて、大きな喜びをもたらした。彼は仕事半ばに、ふと、自分がなにをしているのか忘れてしまって、ほっとした気分になり、そういうときに刈ったところは、ほとんどチートのと同じくらい、よくそろって、きれいだった。ところが、彼は自分のしていることを思いだして、もっとうまくやろうと努めはじめるや、たちまち、労働の苦痛をひしひしと身に感じて、その刈り跡もきたなくなるのであった。

中巻p.39より

リョーヴィンは草刈りをつづけるにしたがって、ますますこの忘我の一瞬を感ずることが多くなった。そういうときには、もう手が鎌を振るうのではなく、むしろ鎌のほうが、自意識と生命にみちた肉体を引っぱっていき、まるで魔法にでもかかっているように、仕事のことなどまったく考えてもいないのに、仕事はひとりでに規則正しく、きちんきちんとできていくのであった。これこそこのうえなく幸福な瞬間であった。

中巻p.42より(太文字引用者)

 これは、農業経営で生計を立てる地主貴族リョーヴィンが、百姓と一緒になって草刈りをするシーン。ここに、仕事の秘訣が詰まっていると思う。草刈りなどの単純作業だけでなく、建築の設計(図面を引いたり、模型を作ったり)にも似たようなところがある。頭がいい感じに空っぽになっているときこそ、いい案が生まれてくるし、手が勝手に動いてくれるみたいな感触がある。その没頭感は長くは続かないし、没頭していることに気づいてしまったらもう既に終了している、というジレンマがあることも、トルストイは見抜いている。
 数年前に読んだ幸田露伴の『努力論』にも同じようなことが書かれていたし、イチローの名言「努力だと思っているうちはダメですね」も、このことを言っているんじゃないだろうか。この過年の期間に、どれだけ没頭する時間を作れるだろうか。この時間を意図的に作り出すコツなどがあれば知りたいものだ。

1/28(火)

 時間や空間が行ったり来たりせず、理路整然と事が進んでいくのがこの小説の特徴かもしれない。全体的にバランスが良く、大きな軸を不倫と恋愛に持ちながら、それぞれの登場人物たちの特徴である農業経営、政治哲学、転地療養、社交界の話が順繰りに訪れる。農村経営についての討論なんて、農業も経営も自分の興味の範囲外にあるため、普段だったら絶対に読まないのに、小説の中だったので真剣に読み込んでしまった。それは、このバランスの良さによって読ませられているのだろう。逆に言うと、『カラマーゾフの兄弟』でいうところの「ゾシマ長老の昔話」や、『ねじまき鳥クロニクル』でいうところの「皮剥ぎボリス」の話など、時空間が飛ぶような、突然挟まれる脱線(に見えるもの)が見当たらない。
 また、『カラマーゾフの兄弟』同様三人称視点で描かれる本作では、主要な登場人物の考えていることはほとんど、読者は全て読み取れるようになっている。登場人物が自分でさえ分かっていない感情の答えも、ときには明瞭に描かれている。
 そのため、「何で必要なのか分からない挿話」や、「何を考えているか分からない人物」が、(全体の半分ほどまで読み進めた今の時点では)まったくない。その点において、少し面白さに欠けると思う。しかし、人物の性格描写や名前のない感情を表現する記述は群を抜いており、やはりゾクゾクとして面白い。この小説を読み進めるあいだ中、頻繁に、自分の人間としての弱い部分を突かれているようで、胃が痛くなってくる。

「どんな人でも、自分をとりまいている条件の複雑さを、とことんまで知りつくすと、その条件の複雑さや、それを解明することのむずかしさは、つい自分だけの、偶然な特殊なものだと考えがちで、ほかの人も自分とまったく同じように、それぞれ個人的に複雑な条件にとりかこまれているなどとは、夢にも考えないものである。」

「彼は何事もしようと思えばできるのだが、ただなにもしたくないのだという、この独立心にもえる人間の立場も、しだいに、その箔がはげてきて、多くの人は自分のことを、ただ誠実で善良な青年という以外、なんの能もない人間だと評価するようになってきたことを感じていた。」

「なにかある事に成功して、その成功が万人に認められていると確信している人の顔に自然とにじみでる、あのおだやかな不断の輝きであった。ヴロンスキーはこの輝きを知っていたので、すぐそれを、セルプホフスコイの顔に認めたのであった。」

それぞれ中巻p.165、p.174、p.179より(太文字引用者)

 引用した三つの部分は、特にグサグサと刺さってしまった部分。「自分のことが描かれている」と多くの人が錯覚してしまうことは、名作の条件である。

進捗

上巻:■■■■■■■■■■ 100%
中巻:■■■■□□□□□□ 37.8%
下巻:□□□□□□□□□□ 0%

アンカレ読破まで、あと54.1%

いいなと思ったら応援しよう!