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【アンナ・カレーニナ 読書日記_2】読書日記の良し悪し

1/1(水)

 この物語に出てくる人間は、「自分にはどこにも悪いことはなかったのだ」という念が強すぎる。リョーヴィン、キチィ、アンナ、みんな同じことを言っている。読んでいると奇妙だなと思うのだけれど、もし「長年思いを寄せていた人がぽっと出の人間の影響で自分に興味を無くしてしまうこと」や「良い感じになった相手を信じて、その他の相手に冷たくし始めたところで、その肝心の相手に逆に切られてしまうこと」や「配偶者がいながらも若くて魅力的な相手からのアプローチを断りきれない状況に置かれること」などが自分の身に降り掛かったら、自分もそのように考えてしまうのかもしれない。
 しかし彼らの言うことも確かで、所得や立場や外見の差こそあれ、実はみんな普通の人で、(カラ兄と違って)特別悪い人や変な人がいる訳ではない。それでも、物事がどんどん悪い方向へと転がっていく。この物語が教えてくれることは、例え自分に「どこにも悪いところがなかった」としても、どうにもできない理不尽なことで、人生というものはあっという間に取り返しのつかない場所に来てしまうことがある、ということかもしれない。

1/2(木)

 社交界と農村の対比が明確である。都会でダンスや飲み会や障害物レースを見物している一方で、田舎では畑を耕し種を蒔き、鳥を撃ち落とし仔馬が生まれる。都会の金持ちがやっていることは消費することばかりで、田舎の農民がやっていることは生産することばかりだ。空虚と充実、人間と動物、役所と農民、いろいろな二項対立が表現されている。登場人物たちが二つの世界を越境しながら、お互いの世界に理解や不理解を示しながら、チクチクと攻撃するところが面白い。

1/5(日)

 アンカレを読んでいて一番思うことは、「作家トルストイは、全ての感情を理解している」ということだ。僕らの人生の悩みは全て、1870年代にトルストイが全て記述しきってしまっている。僕らはそれをなぞっているだけだ。そんな気がしてならない。
 そうであるから、全ての登場人物に、自分に似ている部分を見つけてしまう。リョーヴィンの仕事に対する自尊心、キチィの家族と社交界に対する虚栄心、アンナの愛されることに対する充足感…。なぜこんなにも自分を投影させてしまうのだろうか。

1/10(金)

 乗馬障害物レースの描写が凄まじい。映像を見ているかのような躍動感。東京オリンピックで少しだけ見たことがあったけれど、映像を見るより数倍面白いと感じた。当たり前のことかもしれないけれど、文章は映像を超えうる。

1/19(日)

 一体何日経った?アンカレにハマりすぎて一気に読み進めすぎてしまったせいで、noteを書くハードルが上がってしまった。かつ、ここ最近は土日までも人と会うイベントが重なり、心身共に疲れきっていてアンカレと向き合う時間が取れなかったのだ。2週間前(1/6)には上巻を読み終えていたのに、感想を先延ばしにしたまま2週間が経ってしまった。
 先延ばしにすると良くないことが沢山ある。その時の感動を忘れてしまうし、「あ〜アンカレ日記を書かなきゃな」と、脳みそが無意識に考えてしまうことで、自分の生活に無駄な負担となっていた。そして、今もそれは続いており、上巻をペラペラめくりながらこれを書いているくらいなら、早く中巻を読み進めたいと思っている。なので、今回はこれくらいで諦めて、スッと次回に持ち越そうと思う。このまま永遠に書かずに失踪するくらいなら、下手な文章でも、適当に書いて継続するほうが、マシだと思うのだ。

 台湾生活をしていてよく感じる感情が、そのまま記述されていたので、最後に引用することで自分への励ましとしようと思う。

一座の人びとはみんな楽しそうであったが、キチイはどうしても愉快になることができなかった。それがまたさらに、彼女を苦しめるのだった。彼女はまるで、子供のときに罰として自分の部屋へ閉じこめられ、姉たちの楽しそうな笑い声を聞いたときのような気持を味わっていた。

上巻p.570より

進捗

上巻:■■■■■■■■■■ 100%
中巻:□□□□□□□□□□ 2%
下巻:□□□□□□□□□□ 0%

アンカレ読破まで、あと66.0%

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