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【カラマーゾフの兄弟 読破の道_10】搭乗待ちと電子書籍

8/20(火)

 過去編の過去編という二重過去の話を読んでいる。若き日のゾシマ長老が出会った罪人が語る、昔話。読者が読む、アリョーシャが聞く、ゾシマ長老が語る、人殺しの生々しい記録。読者から見たらすごく遠いはずなのに、すごく記憶に残るのはなぜなんだろう。

8/21(水)

 死体から腐臭がすることを悪く捉える人々の描写が、中学生のいじめみたいで滑稽だった。それと同時に、人生において他人から「臭い」と指摘された今までの経験が蘇って、嫌な気持ちになった。ひょっとしたらコンプレックスなのかもしれない。

 アリョーシャが覚醒した描写にとても感動した。ゾシマ長老の死とともに悟るあたりが、漫画『ダイの大冒険』でポップが賢者になったときに似ている。

大地にひれ伏した彼はかよわい青年であったが、立ちあがったときには、一生変らぬ堅固な闘士になっていた。

「第三部、第七編、第四章:ガラリヤのカナ」より

 それに伴う、一本の葱の寓話が、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のそっくりなんだけれど、もともとは同じ物語をオマージュしているのだろうか。モチーフは違えど、ロシアと日本で同じ根底を共有している…。普遍的な物語の持つ力だ。

8/23(水)

 たびたび執筆者(ドストエフスキー?)が登場するのはなんなんだろう。これがあると、ナレーション的に感じてしまい、小説への没入感が減ってしまうような気がする。でもこれがなかったら、この長大な物語を読み切るだけのペースを掴めないような気もする。三人称小説の妙技。

 今韓国を旅行していて、台北→ソウル→チェジュ島→釜山と3回も飛行機に乗ったので、その待ち時間でカラ兄をだいぶ読み進められた。充電スタンドで充電しながらなので、バッテリーの心配もないし、文庫本と違って手が埋まってしまう感覚もない。飛行機の待ち時間と電子書籍は相性が良い。

8/25(金)

 アリョーシャ編が一区切りついて、ドミートリイが主役になったのだけれど、自分の中のミーチャ(ドミートリイ)的部分が共鳴して苦しい。自分の思うように、想像するように世界の方が動いてくれるという錯覚は、誰しも持っているのではないだろうか。
 セッターの森小屋での悪夢とか、話を聞いてくれないホフラコワ夫人とか、なにもかも思うようにいかなくて、笑えてくる。カフカの小説みたいだ。

 あとここで盛大な勘違いに気づいたのだけれど、「悲劇的な死」を遂げるのはアリョーシャではなくフョードルの方だ。冒頭の文章をもう一度引用する。

アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、今からちょうど十三年前、悲劇的な謎の死をとげて当時たいそう有名になった(いや、今でもまだ人々の口にのぼる)この郡の地主、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフの三男であった。この悲劇的な死に関しては、いずれしかるべき個所でお話しすることにする。

「第一部、第一編、第一章:フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフ」より

 つまりこれは、「アリョーシャは、悲劇的な謎の死をとげたフョードルの三男である。」という文章なのだ。ここを読み間違えてしまって、「感じのいい青年がなぜ悲劇的に死ななければならないのか」などと言っていた10週間前の自分がとても恥ずかしい。この間違いに気付きながら指摘をしないで見守ってくれた方々に感謝したい。

 なぜこのことに気づいたかというと、今読んでいる部分が、すぐにでもフョードルが死にそうな(それも殺されそうな)展開になっているからだ。でも、フョードルには失礼だが、彼が死んでも別に驚きはない。彼は老人だし、憎まれ役だし、狂っている部分がかなりあるから。だったら、物語としては、アリョーシャが死ぬ方が面白いのではないだろうか。彼は皆に愛されて、善行をおこない、正しい行動をしているから。もし彼が死んだら、よっぽどか悲劇的でやりきれないストーリーになる気がする。無謀にもドストエフスキーに意見してみたけれど、この先の展開は、絶対に自分の想像を超えて面白くなるだろうという気がする。続きを読むのが楽しみだ。

進捗

上巻:■■■■■■■■■■ 100%
中巻:■■■■■□□□□□ 52%
下巻:□□□□□□□□□□ 0%

カラ兄読破まで、あと49.3%
(ついに半分突破です!休載するかもと言った時に限って進むという天邪鬼っぷり。来週は旅行記などで忙しくなりそうなので、また停滞しそうです。フリじゃないです。)

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