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【澎湖滞在記_下】

澎湖には霊がいる(?)

 二日目の朝、一つ目の観光地である西嶼東臺という砲台跡と弾薬庫の遺構を見終わって、次の目的地へ出発してすぐに、先生の電話が鳴る。

 「うん。うん。それで?分かったわ。すぐに戻るから待ってて。」

 何やら不穏な雰囲気。電話を終えた先生が、みんなに説明する。

 「フォンヤンのバイクが転倒して、怪我をしたみたい。まず戻って様子を確かめましょう。」

 僕らはその日、一台のバンと4台のバイクをレンタルして、車に5人、バイクに7人で行動していた。車を引き返してみると、さきほど出発した場所からすぐのところに、影のない道路の真ん中で、バイクと共に倒れているフォンヤンと、それを取り囲む同期達がいる。

 「澎湖はマジで霊がいるよ!」と、僕らを見定めたフォンヤンが、脚と手から血を流しながら叫ぶ。傷口は結構深いようで、水で洗い流してティッシュで血を拭き取るも、すぐにまたどくどくと流れてきて、彼の穴の空いたズボンと、踵の折れた靴は既に血だらけになっている。先生が早急に判断を下す。

 「車に乗せて。病院に連れて行きます。あなた達は引き続き観光を続けて。」

 そんなこんなで、二日目の午前には、フォンヤンが脱落してしまった。4年生二人(ビンクァンとイーヨウ)も付き添いで行ってしまったので、突然、3年生たち6人と僕、という奇妙なメンバーとなった。後から聞いたところによると、二箇所を縫う大怪我だったらしい。歩くこともまともにできないため、その後の日程には参加せずに、宿舎で寝たきりとなった。流石に可哀想だった。

 彼が「澎湖に霊がいる」というのには、いくつかの理由がある。まず、フォンヤンはずっと、「何もないところでいきなり滑った」と言っていた。車とぶつかったわけでも、曲がり角で転けたわけでも、スピードを出しすぎていたわけでもない。その場に居合わせた子から見ても、突然倒れたように見えたらしい。また、彼は澎湖に来る前に台湾一周バイク旅行を高校の同級生10人と終えたばかりで、そのときは一切の事故無く終えられたらしく、バイクの運転には自信を持っていた。それに加えて、前回澎湖に来た時も、ここまでではなかったらしいが、事故にあったという。澎湖のせいに、霊のせいにしたくなる気持ちも分かる気がする。

 僕はあまりそういうことを信じるタイプではないけれど、もし澎湖に本当に霊が居たとして、もし仮に霊にそのような力があるとしたら、転けるのが彼なのは納得の結果だと思う。というのも、彼の行動は少し目につく。タバコの吸い殻を道ばたにポイ捨てするし、仲間うちのノリで珊瑚を蹴り上げたりと、ホラー映画であれば真っ先に死んでいく「そういうタイプ」の人間なのだ。

 病院での治療を終えたあと、先生やビンクァンの勧めで、みんな揃ってお寺へお祓いに行ってきたらしい。こういうエピソードは、とても台湾人らしい、と呑気に構えていたんだけれど、まさかこの後、自分まで巻き込まれることになるとは全く想像していなかった。

事故の前、紫のパンツを履いているのがフォンヤン

 その翌日、フォンヤンが転けたその同じバイク(彼が転けたときに左のミラーが取れていた)に乗った女の子が、前方を走っていたビンクァンとイーヨウが乗っているバイクに追突して、事故を起こしてしまう。そして、その後ろに載せてもらっていたのは僕だった。

 しかし、これも霊のせいだというつもりは毛頭ない。後ろに乗せてもらっている間、彼女の運転がずっと怖かったからだ。彼女は典型的な、距離感とスピード感が分からない人だった。ブレーキをかけ始めるタイミングが常に遅く、また、走っているときの前方車との距離感がやけに近い。40km/hくらい出ているのに、一緒にランニングしているかのような距離感で走る。止まっている時、信号待ちの時は、隣同士でおしゃべりできる距離感で止まるのは構わないんだけれど、スピードが速くなれば、それ相応に距離を離すべきなのだ。
 彼女の後ろに乗せてもらいながら、何度も言おうか迷ったけれど、結局、言う前に事故を起こしてしまった。「ブレーキをもう少し早く握ろう」「前のバイクとの距離を離そう」「地図じゃなく前を見よう」という言葉を、優しく、分かりやすく言うにはどうしたら、と悩んでいたのがダメだった。こういうことを、プレッシャーをかけないように伝えることってとても難しい。
 要因は沢山あると思う。そもそも6つほども年上の、知り合ったばかりの異性の外国人を後ろに載せていること、左のミラーがなかったこと、時間が少し押していたこと、馴れない土地が不安で地図を注視しすぎていたこと。こんな条件が揃って、緊張しないわけがない。

 何度も謝る彼女に、3人で「大丈夫だよ」「なんともないよ」「自分を責めないで」と声をかけた。他にどうしろって言うんだ。
 「スピードを出しすぎた…ごめんなさい…」と反省していたけれど、問題はスピードじゃなかった。ブレーキを握る判断の遅さと車体間隔の近さだ。そんなことも、事故の後には伝えられるはずもなかった。、彼女は胸の痛みを訴えていたので病院で検査をして、僕は右脚への軽い外傷だけだったので、薬局で塗り薬などを購入した。二人ともフォンやんほどは大事にならずにすんだ。

クルーズツアーに参加

 三日目の朝(僕が事故に巻き込まれる前)に、小さな船に乗って澎湖最北部の目斗嶼、吉貝嶼という場所を周遊する、クルーズツアーに参加した。まず、最北端の島、目斗嶼に着く。白黒に塗装された管制塔(?)がポツンと立っているのみで、住人といえば貝類と海鳥しかいない。また、その塔の敷地内には入れなかったので、特にやることもなく、透き通った海だけが魅力の島だ。小高い岩に登って写真を撮っていると、学生達が僕にカメラを向けてきた。ポーズとって!と言われたので、セクシーポーズを披露したらまあまあウケた。調子に乗っていくつかのポーズを披露しながら、ふと、もしかしたら彼らは、僕が6歳も年上だということに気づいていないかもしれない、ということに気づいた。
 岩場から降りて、「27にもなって、こんな恥ずかしいことができるとは、君らの歳の頃には想像もしてなかったよ」と言ったら、一人の女の子から「え、おじさんじゃん」と言われた。

 初めて、年下の女の子から、僕の年齢を知った時に「おじさん」と言われたのだが、これは想像していたよりも、ダメージがある。でも思い返せば、僕も21歳の時に、27歳をおじさんと呼んだことが一度くらいはあったかもしれない。(ちょうど実の兄が6歳上だ) しかし、こんなにダメージを受けるとは思いもよらなかった。過去の自分に6年越しに刺されたような気分だ。
 僕があのときに想像していた27歳の自分は、もっと落ち着いていてかっこよかった。でも、大学生達が笑っている顔を見ていたら、これはこれで、悪くないかもしれないな、と思った。

目斗嶼、小さすぎてほんとにこれだけです

 続いて吉貝嶼という島について、またもレンタルバイクで行動する。レンタルバイクまでがツアーの内容らしく、客をバイクに乗せ、全く日影のない炎天下の交差路の脇で、長時間(と言っても実際は5分くらいだったけれど)説明を聞かされて、普通にキレそうだった。なにせ、乗船中の暇な時間に説明しておけたであろう内容なのだ。南国の灼熱がジリジリと身体を焼く時間を、その身で体験できる、なんとも贅沢なツアーだ。
 集団行動、ツアーの拘束時間、そういったものにつくづく向かない。みんなが真面目に聞いているのが信じられなかった。船に乗っているときでさえ、意味がわからないと思うけれど、何度か海に飛び込みたくなった。こんなところで拘束されているくらいなら、泳いででも一人でどこかに行きたいと、思ってしまうのだ。(思うだけ)

 吉貝嶼は、バイクがあれば20分ほどで一周できてしまうほどの小さな島だが、こちらは人が住んでいて、民家や畑やお墓が、僕らが泊まっていた白沙よりも更に原初的で、とても面白かった。その日もバイクの後ろに乗せてもらって移動していた(なにしろ二輪の免許がないので)のだが、道中目にするものが面白すぎて、ずっとシャッターを切っていた。まさに天国かと思うような、美しい風景に興奮しっぱなし。

天国すぎる風景
バイクは基本2人で一台

 しかしあまりにも暑すぎて、みんなの体力は限界だった。海辺の東家に着くと、ビンクァンが「ここでちょっと休憩しよう」と言う。これはチャンス!みんなが休んでいる間に、バイクの鍵を貸してもらって、先ほど目に入った墓を見に行くことにした。

 この島で、一人で行動したのはこの10分に過ぎなかったが、とても楽しかったし、多くの発見があった。自由行動こそ正義、自由行動を愛せ!

吉貝嶼で発見した墓(多分)

居場所と遊び方を発見する能力

 同じ島の南西部の西崁山という展望台にやってきた。鉄骨の軽い構造の上に人工木が張られた歩道を辿っていくと、黒く塗られた柵に囲まれた、小さな展望台が三つある。見た瞬間、つまらない場所だと思った。展望台から見える景色は、当たり前に壮観なのだけれど、風も太陽も強いので、くつろぐことができない。何より、澎湖らしい作り方をしていない。

つまらない展望台

 女の子たちは楽しそうに写真を撮っているけれど、男子たちすぐに飽きて、携帯でsnsを見始めた。僕は、彼女たちを待っている間に、展望台の下に入れば陽が避けられることに気がついた。高さが140cmほどで、自然と腰を下ろすことになる。そうすると、足元に生える植生のことや、岩でできている地面のことなどがよく見えて、澎湖らしさが見えてくる。こっちの方がよっぽどか気持ちが良い。

 暑さに耐えかねた男たちがそこに入ってきて、「確かにこっちのがいいな」と共感してくれた。すると、手持ち無沙汰なビンクァンが砂遊びを始める。小さな石を用いて、砂を縦に掘っていく。「さっき見た畑みたいだ」僕の一言をもとに、想像は加速する。じゃあこっちに石垣を作ろう、雑草を抜いて野菜に見立てよう、給水溝を拵えよう…どんどんと小さな風景が出来上がっていく。吉貝嶼のつまらない展望台の下に、もう一つの小さな吉貝嶼ができあがった。やっていることはとても子供っぽいのに、一緒に作り上げる楽しさと、見立てることの面白さを感じて、すごく有意義な時間に感じた。

 これは、建築計画学を学ぶことで鍛えられた能力な気がする。僕らは皆、建築模型を普段から作っているし、建築や空間のことを普段から考えている。だから、一見つまらない場所でも、居場所を発見できるし、何もない場所でも、遊び方を発見できる。なんて素晴らしい能力なんだ、と改めて思った。

小さな吉貝嶼

アイデンティティと個性ついて

 その夜、(手足に包帯を巻いた)フォンヤンとビンクァンと、「自分はどこに属するか問題」について話し合った。

「アツヤ、お前の地元はどこだ?」とフォンヤン。

「愛知県ってところ。聞いたことある?」

「知ってるよ。なんで愛知が地元だと思う?」

「生まれ育った場所だから。大学まで愛知で暮らしてた。」

「もし、生まれと育ちが別の場所で、また、学生時代も転校を繰り返していたら、同じように感じるだろうか?つまり、僕のことなんだけど」とビンクァンが告白をする。

 確かに、そういう人生なら、地元が一つの場所ではなくなっていきそうだ。そう考えてみたら、愛知への帰属意識は、何も出生地と育った場所だけではなさそうだ。他にも、両親の出生地/育ち、自分の国籍、母国語(僕は三河弁が母語だ)、外見、知り合いの比率などなど、自分が何者かを判別する要素は沢山あって、複雑に絡み合っている。

 僕はそんなことを思いながら持論を披露した。

 「例えば、ヨーロッパの人から僕ら3人を見れば、きっとアジア人と名をつけて一括りにする。でも、日本人から見れば、二人の台湾人と、一人の日本人に見える。また、僕から見たら、ビンクァンとフォンヤンとアツヤという個として認識する。このように、視点をどこに置くか、どの角度から見るかで、分け方というのはいつでも変化するから、自分がどこに属するかなんてのは、実は大事な問題ではないのではないだろうか?」

「また、僕は台湾人に出身地を説明する時は、その人との親しさや日本への理解度を鑑みて、日本、愛知、名古屋、岡崎、という言葉を使い分けている。どれも正解だし、どれか一つに決める必要なんて全くない。もしかしたら数年後、新たな故郷の一つに宜蘭が加わるかもしれない。」

 澎湖で、こういう話ができる友達ができたことがすごく嬉しかった。そういえば、澎湖に住む人は、「台湾に行く/帰る」という言い方をする。実際は、台北、高雄、屏東といった目的地があって帰るのだが、みんな(5回聞いて5回とも)「台湾」に帰る、と言うのだ。僕にとってはこのことがとても興味深かった。例えば僕の両親が台湾に来たとしたら、もちろん「日本に帰る」という言い方をするが、もし沖縄に行ったとしたら、「愛知に帰る」という言い方をするだろう。
 澎湖は、台湾の領土であり、澎湖「県」である。それは日本統治時代が終わってからの台湾の歴史と何ら変わりはない。この二つを両立させると、「澎湖人にとっては、澎湖は台湾でありながら、台湾でない」という不思議なロジックが成り立つ。やはり、明確に線を引くことは不可能なのだろう。

 話は少し飛躍して、このスタジオには三年生の女の子が4人いたのだが、3日間とも、みんな同じような格好をして、基本的に一緒に行動していたのが不思議だった。白い服に、黒いズボンに、サングラス。同じ年代、同じスタジオ、同じような髪型…加えて、インスタに上げている写真もほんとに似ていた。中国語で表現するなら、まさに「差不多」。そのことに、一体感とか幸福感を感じるのだろうか。僕には理解できないかもしれない。人と一緒でいることを嫌がる僕のような人間もいれば、人と一緒でいることを好む彼女らのような人間もいる。

 彼女らの後輩の男の子に、なんで彼女らは似た格好をしているのか?と聞いてみたら「多分だけど、先に約束をして、合わせているんじゃないかな?」と言っていた。どうやら想像力が足りないのは僕の方だったみたいだ。確かに、4人並んで写真を撮ることが目的なら、その方が見栄えが良い。先生は彼女たちを、妹妹們(妹たち)と呼んでいて、それもちょっと嫌だった。もし僕がそんな風に無個性な集団名で呼ばれたら、すごく嫌な気持ちになる。

 でもこう感じるのも、僕が男性で、大学生ではなくて、台湾人でないという、彼らの外側に属している人間だからなのだろう。僕はこの場に限っては彼女達に比べて個を持っているだけであって、もっと独特な集団(例えば美大生とか、ロックスターとか)から見たら、僕だってやはり平凡に見える。我々は、ほぼ全ての物事に対して、自分というただ一つの偏った視点からしか、価値判断をおこなっていないことを自覚しなければならない。彼女らと喋りながら、そんなことを思った。
 ちなみに一人一人と少し喋ってみたけれど、(当たり前ながら)みんな個性を持っていて、それぞれ違う趣味を持っていて、安心した。

発表すること、共有することの意義

 三日目の夜、先述した僕らの事故の影響で、時間が押しに押して、共有会が中止となってしまった。でも折角準備したのに発表しないのは勿体無いと、ビンクァンが学生たちに声をかけてくれていた。夜10時、8人ほどの学生を前に、包帯を巻いた脚を引きずって、覚束ない中国語で発表した。先生がいなかったことと、お酒を飲んでいたことで、とてもリラックスした雰囲気で話せた。特に原稿を用意しなくても、なんとなくで喋れるくらいにはなってきたのが実感できて、すごく嬉しかった。

 発表を終えると、一人の男の子が、色々と墓についての知識を教授してくれた。あれは多分こういうことなんじゃないか?とか、台湾の墓の方向の決め方とか、墓の上に置かれた石の意味など…。そんなことを教えてもらえたのは初めてのことで、なぜ墓についてそんなに詳しいのか、と興奮して聞くと、父親が墓場の管理関係の仕事をしていると言っていた。こんなところで専門家の知り合いに会えるとは。
 かつて香港旅行記で、墓荒らしに壊されてしまったと勘違いしていたものは、撿骨師の仕事だったみたいだ。墓は、管理者(子孫)がいないと、荒れていく一方である。そこで、数十年後(作られてから50年くらいが一つの目安のようだ)に引き継ぎ手がなかった場合に、墓を壊す(棺を掘り返す)仕事があるらしい。そんな感じで墓トークを繰り広げていたら、あっという間に夜がふけた。

 今回自分でまとめる中で色々と整理できたし、こうして意見やアドバイスをもらって次にやるべきことが見えてきた。僕にとってとても有意義な夜だった。

(※閲覧注意 ↓その子が紹介してくれた撿骨師の仕事が分かる動画、人骨とかめっちゃ出てきます。)

台風の到来と突然の送還

 連日の予定の遅れから、4日目は丸一日、皆スタジオに籠って仕事を進めるというので、一人でぷらぷらと歩くことになった。「申し訳ないけれど、一人でここら辺を見て回っててくれませんか?」と先生直々に言われたけれど、元々はそのつもりだったし、一人で歩くことは好きなので、全然問題なかった。

おしゃべりをしながら漁に用いる網を編むおばさま方
石のアーチ、石窓枠、珊瑚壁の境目
新旧の住宅が混ざり合う町並み

 この日の夜に飛行機で帰る予定だったのだが、台湾にかなり大きな台風が迫ってきており、既に風が吹き荒れていた。僕は結構楽観的に構えていたんだけれど、お昼の2時くらいに、ビンクァンから電話がかかる。「ちょうど馬公(空港のある県庁所在地)に行く人がいるんだけど、載せてもらって早めに空港に行ったらどうかな?先生が、飛行機のチケットを早めの便に取り替えられるかもしれないからって。」

 僕が予約していたのは、キャンセルも変更もできない最安の航空券で、多分無理なんじゃないかな、と思ったけれど、彼らにしてみたら、「僕を無事送り返さなければならない」という心配事が常に一つある状態が続くことを考えると、早めに空港に向かったほうが、彼らにとってもよさそうに思えた。もし飛行機が飛ばなかったら、翌日からの仕事に戻ることができないし。

 空港について聞いてみるも、「あなたの予約したのは、変更ができないタイプです。心配なさらずとも、今日の晩は飛ぶと思いますよ。」とのことだった。なので、飛行機まであと5時間あまり、空港で時間を潰すこととなった。

 ビンクァンがまた電話をかけてくれる。「無事に空港についた?うん…うん…本当?ダメだったか…。申し訳ない。僕も無理じゃないかなと思ったんだけど、先生が、絶対大丈夫だって煩くて…。」
 僕は、一人で待つことを苦に感じない性格だから全く問題がなかった。ツアーで炎天下の5分を待たされるのに比べれば、クーラーも電源もある場所で、一人で5時間過ごすのなんて、屁でもない。

 持参していた小説を取り出して読み進める。台湾の離島の空港で、台湾人がサハラ人について書いた本を、中国語で読んでいる。澎湖の波と風に耳を澄ませながら、サハラ砂漠の景色を想像する。空港は、翌日の便を今日の夜に変更しようと焦る人々でごった返していた。


 今回は、旅行記というよりも、人間観察日記みたいになった。自分で道を調べたり、目的地を決めたりを殆どしなかったので、代わりに、人との会話や、観察の時間が増えた。読んでいる人に、彼らの魅力が伝わったら嬉しい。誘ってくれて、仲間に入れてくれてどうもありがとう。

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