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夜を越える旅。或いは「Woman “Wの悲劇より”」 考

前口上、 或いは自網自縛

旧Twitter(現X)を徘徊していて、ふいに、菊地成孔とぺぺ・トルメント・アスカラールのカヴァーによる「Woman “Wの悲劇より”」に出くわし、“ああ、そういえば” と思ったことがあります。

もう、 かれこれ3年半ほど、 寝かせ続けている文章があって。
思い付いたアイデアを整理するぐらいのつもりで書き出してはみたものの、行き詰まりというか、 「これでいいのか?」 感がつきまとい、時折手を入れはするもほぼほぼ棚上げになってしまっており。

純粋に、文章それ自体の出来に対する疑念じみた思いもなくはなく、当然それは厳然としてあるのでしょうけれど、しかしそれ以上に「人のふんどしで相撲を取」っている面が小さくないこともあるのかなぁーーという、完全なる “自意識過剰” 案件と化していたのかも。

ただ、その文章を思い出すきっかけを与えられたということは、 発表のきっかけを与えられたということでもあるのかなと思い、いいかげん投稿してみようと腹を括った次第です。
せっかく始めたnoteも、ずいぶん寝かせてしまっているザマなので(苦笑)。

以下、(ちょっとだけ手を入れた)その文章です。


『学習図鑑(テキスト)』を捨て去り巨人に挑む僕たちへ

「ココロ躍る大人の音楽メディア」 「懐かしむより超えていけ!」 を標榜し、 1980年代の音楽エンタメを軸に、 多彩な書き手によるオリジナルのコラムが並ぶ『Re:minder』というウェブサイトをご存知でしょうか。

3年半ほど前、このサイトで 薬師丸ひろ子さんが特集されました。 そこに寄せられた、 薬師丸さんの楽曲にまつわるコラムの中に、 田中泰延さんによる 「WOMAN “Wの悲劇より”」 についての一篇があります。

彼が書かれるレビュー記事などには、 大いに笑わされるエンタメな一面がありつつ、 発見や感心させられる側面もまたあふれていて、いつも読後の満足感といっしょに 「凄いなあ」 と思わされることしきりで。
大げさに言えば、「心酔している」 と言えないこともないぐらい。

しかし、 そんな田中さん執筆のコラムながら、このときはなぜか、 ごくごくわずかに、 違和感というか “かすかな 「しっくりこなさ」 ” を感じてしまって。

そのことに 「なぜ? どうして?」 と考え出し、 延々と(もちろん断続的に、ですが)考え続け、 あるときふとした気まぐれで、菊池成孔とペペ・トルメント・アスカラールによるこの曲のカヴァー・ヴァージョンを久しぶりに聴き、 さらに幾度も繰り返して聴いているうち 「これは、 原曲を “因数分解” したのだ」 という気がしてきたのです。
「ひょっとして、 この向こうに自分なりの楽曲像が見えてくるのかも」 と。

詞・曲・歌唱が絡み合い、 もつれ合うように混然一体となって構築された世界を解体し、 わずかばかりわかりやすく(、 でも少々の混沌と “あからさまさ” とを加飾もして)再構築されたこのカヴァー。

「エロス」 と 「タナトス」 とが広がる、 ペペ・トルメント・アスカラールが紡ぎ出した、 妖しくも甘美、 かつ哀しさや緊張感をも孕んだ音のタペストリー。 その上で、 しかしそれらとはゆるやかに隔絶しながら、 幻想の中ほんのわずか浮遊してみせる、 受け取りようによっては滑稽にさえ映るであろうけれども揺るぎのない菊地成孔のヴォーカル・パフォーマンス。

そこからは、 交錯し重なり合い混在する 「生」 と 「死」 を越えた向こうにある、 まったく新たな 「生」 を想起させられます。

朝陽の中へ

そう、 田中さんも、自らのコラムの中で 「生と死の交差」 「エロスとタナトス」 というポイントを指摘されていました。

ただ、 彼は、 この曲が最後に 「生きることへの希望を示している」 と結論しました。 対して私は明確に 「再生」 を感じ取り、それを信じた。この「生」 という要素の捉え方というか、 感じ方の濃淡が、 私の感じた違和感の正体だったのでしょう。

と、 ここで改めて 「WOMAN “Wの悲劇より”」 原曲へと立ち返り眺めてみたとき、 私の前に広がったのは “ 「親殺し」 にも似た、 ある種のイニシエーションとしての 「男殺し」 ” のストーリーでした。
それが、 夢にせよ、 現にせよ。

どれほど 「死」 のイメージを曲(詞)中に孕んでいようとも、 しかし、 「自己(歌い手)の死」 というものの具体性はきわめて希薄です。 対して、 歌われこそすれ存在感のひどく希薄な、 およそ生気の感じられない男性像・・・・・・。

心中を想起させもする曲の、 その最後。 彼女は己の傍らで 「眠る」 男の顔を、 ただ見つめる。 朝の陽が射すまで。

このふたりに 「永遠」 はあり得ず、 そのかわり(少なくとも)彼女には、 確実に、 次の朝が訪れます。

ふたりのものだったストーリーは男ひとりに託され 「死」 を迎え、 男の眠り顔をただ見つめていた彼女のみが、星降る夜のイニシエーション、時の河を渡るヴィジョン・クエストを経て 「再生」 あるいは 「新生」 を迎え、朝陽の中新たなストーリーを紡ぎはじめる。

一夜の「旅」が終わり、 やがて新たな現実世界へ再び旅立つまでの束の間の休息もまた終わろうとするとき、 彼女はきっと、 惜別の想いを込めて、 カーテンコールのポーズをとってみせることでしょう。

喜びも、 哀しみも、 希望も、 不安も、 切なさも、 愛おしさも、 あらゆるすべてがないまぜになった、 映画のあのラストシーンのように。

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