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その腕の中に

働く事の価値とは、なんだろう。

人は幸せの為だとも言うが、その向けられた幸せは誰だろう。

身を粉にしてまで誰かの幸せの為に働く姿を、たくさん見てきた。

その幸せの正体が何なのかを、今日も見続ける。

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ベトナム・ホーチミン市は、ベトナム南部にある国内最大の都市だ。
かれこれ20年近く訪れているが、他国と比較しても、この街は大きな変化を続けている。

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1980年代に行われたドイモイ政策により、急激な経済発展を繰り返してきたホーチミン市は、それ以前からあった旧市街と、新しく生まれ変わる新市街との境界線がはっきりと目立つようになっていた。

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街が大きく変化している様に見えるのは、僕が毎日そこにはいないからだ。
そこにはきっと、途方もない数の笑いと涙があり、水量に応じてゆっくりと形が変わっていく川の流れの様でもあった。

タンソンニャット国際空港から西側に位置するタンフー区も、その例外ではなかった。

訪れる度、見慣れたはずの景色が変わっていく。

思い入れのあった場所が次々に更地となり、その後には大型ショッピングモールやマンションの建設が予定されていて、歴史ある古い建物や市場がまた1つ姿を消していくのかと思うと、少し寂しい気持ちになった。

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昔のままの形を残した街というのは、散策をしていて楽しい。

どういう経緯でそうなったのかを考えるだけで面白い紆曲した道。
急に行き止まりになる、細い路地。
軒先に置いた大きな洗面器で水遊びをする幼子。
喧嘩でもしているかの様に、向かい合った窓から大声で言葉を交わす住人。
ただ何もせず小さな椅子に座り、流れるバイクを眺める老婆。

新しくなった土地では全て、見る事が出来なくなる。
カラフルに彩られているのに無機質に見えるショッピングモールやスーパーは、便利と引き換えに街全体が緩やかに熱気を失っていくような感覚がした。

けれど、若者の多くは自分達の街が新しくなっていく事を悪く思う連中は少ないだろう。
一方で、狭く古い店でも美味しいフォーやベトナム料理を作っていた老夫婦達には、どんな風に映っているのだろう。

そして、このエリアにある長年付き合ってきた工場にも、通達が来た。
国の計画によると、あと数年でここも閉鎖となる予定となった。

工場で働くマイ(Mai)は、若くして既にベテランのワーカーである。
彼女の手先は人よりも器用で、平均的な作業量の倍近くを素早くこなす。

技術を教える際、日本人同士でなければなかなか伝わりにくい様なニュアンスですら、彼女は素早くその意図を汲み取り、理解した。
大人しい性格だが、いつも笑っている彼女は工場内でも人気で、朝早くから夜遅くまで精力的に働く彼女が、楽しそうに見えた。

10代の頃、普通のワーカーだった彼女はその優秀な能力が買われ、なるべくしてグループのリーダーになった。
儒教の影響もあってか、ベトナムも他のアジア同様、年功序列的な要素が多い中、普段から声が大きく、頑固な年配ワーカー達も、マイのいう事であれば大人しく聞き入れた。
同僚というよりは、可愛い孫にでも言われている様な感覚がするのだろう。

アジアを旅すると感じるのは、とにかく女性の手先が器用な事だ。
装飾品や工芸品、縫製などの細かい作業は彼女達が得意とする所だろう。
ヒマワリの種をおやつ感覚で食べる習慣があるが、彼女達はいつも見えないスピードで殻を剥いていく。
これだけは何度教わっても出来ないし、真似をするといつも笑われた。

マイの地元は、ホーチミンではない。
彼女はベトナム中部にフエ(Huế)から出稼ぎに来ていて、”テト”と呼ばれる旧正月の僅かな期間だけ、帰郷した。

何度か、マイを含めた若い衆と夕飯に出掛けた事があるが、彼女の話によると、田舎にいる祖母が病気であまり良い状態ではなく、いつもそれだけが気がかりだと言っていた。
マイは毎月家族に仕送りを送り、自分は至って質素な生活を送っていた。
若い時に賑やかな街にいたら、きっと色んな誘惑があるだろう。
10代から親元を離れ、家族の為に働くという事が、僕には尊く感じた。

翌年、21歳になったマイは結婚をした。
相手はホーチミンに住む青年で、一度だけ恥ずかしそうに写真を見せてくれた事があった。
若くて真面目そうな、とても素適な青年だった。

程なくしてマイのお腹が大きくなり、華奢な身体には不釣り合いに見えた。
けれど、彼女は何1つ生活を変えることなく、毎日働いた。

昔も今も、世界中の母親の多くは妊娠後も働く。

僕は男だからその大変さが実感出来ないが、それでも日々彼女のお腹が大きくなっていくのを見ているだけで、ハラハラした。
これが僕なら、早々にギブアップしている。

マイは出産のギリギリまで働くつもりらしいが、立ち仕事が多いので大変だろうと言うと、今は工場内のワーカーが気を使ってくれるので以前よりはずっと楽だと、ほほ笑んだ。

僕が日本にいる間も、彼女を含むスタッフ達との定期的な連絡は続いた。

ある日、携帯電話に見覚えの無い番号が表示されたが、ベトナムからの電話だったので取り次ぐと、別のスタッフからだった。

マイが工場で倒れたらしい。
救急車で運ばれたとの事だったので、嫌な予感がした。

時はテトが目前に迫り、工場の忙しさはピークに達していた。

テトに入ると、全ての公的機関や民間企業が静まり返る。
店を開けているのは正月向けの飾りを売る店や、花火を売る店、そして食糧店くらいのもので、その他はありとあらゆる店が休業する。

当然、工場も残っているのは僅かな守衛くらいで、中途半端な情報だけを受けたこちらは、彼女のその後が気になっていた。

2月初め。
ベトナムが一年で最も静かになる時に、1通のメールが届いた。
そこには、少しやつれた顔のマイの腕に抱かれた、元気な双子の男の子が写っていた。

早とちりなのか、説明が下手だったのかは不明だが、どうやら救急車で運ばれたのはマイの祖母の方で、その知らせを聞いた彼女が数日早くフエに帰郷したという事らしかった。
ベトナムと仕事をしていると、情報が錯綜するのはいつもの事だ。

彼女が家族の為に働いたお金で祖母は全快し、マイにそっくりなお婆ちゃんが、笑顔で写っていた。

マイの生きる強さに、僕は一生勝てないと思った。

長いテトが明けたら、何を持って行こう。

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