記憶の断片を繋げる
ある時、「旅の感想」とか「旅の思い出」という言葉を目にしたとき、ちょっとした違和感を持っていることに気がついた。
20年近く、定期的に短い旅(という名の出張)を繰り返してきたのだけど、「記録」はあっても、その短い滞在においてそれぞれの「感想」というのは、あまり出てこない。
自分にとって感想という言葉のしっくりこなさは、幼少のころ、事あるごとに学校で書かされていた感想文のせいだと思ってる。
修学旅行はもとより、夏休みや冬休み、ちょっとした遠足に連れて行かれては学校から感想を求められ、挙句の果てには季節の変わり目にも感想を求められたりした。
感想なんて毎回、泉のように湧き出してくるだろうか。
子供の頃、僕はこの感想文というヤツがとにかく苦手で、課された宿題の中ではいつも後回しにしていた。
約2年前からnoteを書くようになって、僕は長年苦手だった厄介な「感想を書く」という概念を捨て「記憶の断片を繋げていく」と捉えてみると、大きく性質が変わることに気がついた。
日々の多くは一瞬のできごとの連続で、相手の表情や空気は鮮明に思い出せても、場所であったり、いつごろの話だったかを覚えていなかったり、けっこう曖昧になっている。
ただ、同じ場所へ繰り返し向かい、その地を見ることによって、そこにある記憶の断片をうまい具合に集めやすいのが旅なのではないか。
そんなふうに思うようになった。
どこにいても、さまざまな場面で残っている「記憶の断片」を頼りに、これから短い小さな記録をマガジンに残していこうと思う。
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