海を見たことのない老婆
伝え受けつぐとは、どういうことだろう。
何百年も前からある音楽や踊り、土地土地にあるしきたりも、オリジナルを受け継いでこなければ、違うものになっていたかもしれない。
伝承は、継承する人々が途中で形を崩さずに、どれだけ正確に後世に伝え続けられるかという部分に、美しさがある。
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親父と、高校卒業の頃によく釣行の旅をした。
中学の頃は一時的な反抗期もあったりもしたが、釣りの話題になれば盛り上がった。
高校まで部活動に割かれていた時間が無くなり、久しぶりに釣りを再開できることが嬉しかった。
山釣りの良いところは、いつでも中断ができる。
川沿いを走る県道に美味しそうな蕎麦屋があれば立ち寄るし、農家の婆ちゃんに声を掛けられれば、立ち止まって話をした。
日本は恵まれた地形であると感じていて、電車やクルマで、海や山へ容易にアクセスができる。
国によっては丸1日かけても海や山へ辿り着けない場所もあるし、そもそもどちらかが無い国もある。
容易に移動が出来なかった頃、旅は今よりもずっと命がけで、山村の農家が山菜を漁師町まで背負って行き、海産物と交換するのが人生で最長の旅だったとか、道中、山賊に襲われ荷物を全部盗られたとか、今もあちこちにいる爺ちゃん婆ちゃんや、彼らのさらに爺ちゃん婆ちゃん達から伝え聞いた話を聞けたりするのも、楽しみだった。
福島県・檜枝岐(ひのえまたむら)村は、南会津に位置する、周囲を山に囲まれた、小さく美しい村だ。
村の西部はダムによって出来た銀山湖があり、南に尾瀬国立公園がある。
尾瀬のシンボルでもある燧ケ岳(ひうちがたけ)は檜枝岐村に属していて、その北側から入る御池ルートは人気があり、檜枝岐村は今でも小さな観光地として栄えている。
銀山湖はかつて開高健が数ヵ月間山籠りし、夏の闇の構想を練った場所として有名だそうだが、実は単に釣りがしたかっただけなのではないかと思うほど、周囲には深い山々と魚影の濃い河川が存在する。
首都圏から約5時間をかけ、目的地へと向かう。
長い山道を走り檜枝岐村に入ると、中心部には地蔵が祀ってある。
お国から特別豪雪地帯に指定される山村にもなると、昔はもれなくどの集落も貧しく、ひどい飢饉には口べらしとして赤子を川へ流したりという話を聞く。
そうしないと、村そのものが全滅してしまうからだ。
村人は若くして去った霊を弔い、母の地獄の様な苦しみと哀しみと嘆きを慰めるため、各地に地蔵を祀った。
東北一帯では至る所でその悲劇は起きていて、数の多さを知ると閉口してしまう。
こんな事がたった一世紀前まで起きていたなんて、今の子供達は信じるだろうか。
災害や干魃、冷害が起きる度に先人達は経験と知恵を使い、時に命を減らして生き延びてきた。
その日の晩、野営地でそんな会話をする父に尋ねた。
「昔のそういう悲しい話は、今後何かの役に立つのかな?」
父は、笑いながら言った。
「昔話は、大変だった、つらかった、悲惨だったという心情がとても多く含まれているよな。俺の小さい頃も実際にそうだった。けれど、伝承は度重なる危機にどうやって命を繋いできたのかを伝えて続けていくことでもあるから、この村も、俺たちも生き残ってきたのかもしれないよね」
そう言って、それ以上の説明は無かった。
30歳を過ぎた頃、中国・成都市を訪れた。
移動の途中に立ち寄った、小さな料理屋で出会った婆さんは、生涯海を見たことが無いという話をしてくれた。
ただ、彼女は写真や子供達から伝え聞いた『海という景色』は知っていて、このまま海を見ずともそれで十分だといった言葉を聞いた時、遠く離れた檜枝岐のことを思い出した。
会津駒ヶ岳の山麓を歩くと、大きな石碑があったり、印の様なモノをよく見かける。
それが何を意味するのかはわからないが、それも先人達が遺していった伝承の1つであり、村に帰りそれを話題にすると、村の人は嬉しそうにその意味を教えてくれた。
東日本大震災の時も、津波石碑の存在が見直されたというニュースがあったけど、長い間その土地を知らなければできないことだと感じた。
檜枝岐は、誰もが目を引くような派手な観光スポットがあるわけもなく、人口密度は日本で一番低い。
明治時代には全村火災という大災害にも遭ったが、彼らは生き抜いてきた。
小さなその集落の中には知恵と経験と伝承が何一つ変わることなく遺されていて、彼らがどんな風に生き抜いていたかの証を見ることができる。
簡単に手に入る情報全てを取り除いた時、生きる為の知恵や経験が自分の中に残るだろうか。
この村を訪れて以来、そんなことを考えるようになった。
まだまだ、訪れたい場所が東北にある。
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*檜枝岐がどんな場所なのかがわかる、素晴らしいプロモーションビデオを見つけた。
お暇な時に、是非。