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看板を掲げているわけでも無いのに、人生相談に近い話をされることがある。
それがなぜ何度も続くのか不思議に思ったことはあったが、ある日、友人からお前は話を聞く割合の方が多い人間なのだと言われた。
ただ、自分が若い頃はそんなこと無かったはずで、自分の話をしたくて、聞いて欲しくて相手に訊かれてもいないことを話していた気がするが、歳を重ねるにつれ、そういうものに疲れてくる。
疲れるというのも、体力や精神が疲労するという意味ではなく、つまらない自分の話をするより、相手の話を訊きたいと思うことが増えた。
仲のよい友人だけはその割合は崩れる(せる)と思っているが、初対面の人や出会って日の浅い人と会話をはじめるとき、相手の話を8割聞き、こちらは2割もあれば十分なのでは、と思うようになった。
会話の比率に関しては、海外の連中というのはとても上手だと思っていて、よくよく考えると、そこには人が持つ心理や魅力が隠されていると思うのだ。
生活をしていると、大なり小なり瞬間ごとのハイライトが存在する。
不意におもしろい出来事が起きたり、時にムカっとくることだってあるが、日々浅く明滅するハイライトというのはとてもインスタントなもので、その日寝てしまえば、翌朝ほとんど忘れていることが多い。
ただ、他愛もない話題こそ実は取り扱いが大切で、吐き出すとすれば、通い慣れたバーの常連とお互い笑いながら記憶の側溝に流すくらいしか無い。
なぜなら相手は自分のことを知っているし、自分も相手のことを知っている、フラットな関係が築けているからだ。
けれど、その相手が初対面の人だったらどうだろう。
お互いどんな環境にいて、どんな性格なのかもわからない。
自分も含め多くの人が目測を誤るのは、相手がどんな人なのかわからない段階で、自分の周りで起きた小さなハイライトをいきなり相手に話してしまうことにある。
相手のことを知らないというのは、魅力的であることよりも、怖いことであるという感覚を持っていて損はない。
ものすごい確率でその小さなハイライトなネタで怒るかもしれないし、知らぬ間に失礼なことを言ってしまっているかもしれない。
それをリスクと捉えると堅苦しいけど、初対面に近い段階であれば、自分の話をするより、相手の話を聞いている方が結果的にいい方向へと向かうことが多い。
例えば、初めて会った人が自分と同じ趣味を持っていたとする。
嬉しくなる気持ちもわくし、思わず前のめりになって話したくなるけど、少し立ち止まって気持ちを抑える。
勇んで自分も同じ趣味をやっておりますなどと話すのは、まだ早い。
一通り相手が話し終えたときでも、その話に対して、とても楽しそうですねとか、とても難しそうですね、くらいで十分だと思う。
そのまま静かに話を聞き続けていると、最初にいいことがある。
相手が話を止め、こちらに話を投げてくるか、そのまま相手が一方的に話し続けるかのどちらかが、くっきりとした形として見えてくる。
前者であればもう一歩踏み込んだ話をできるかもしれないが、後者はこれ以上会話が発展する可能性は低く、早い段階で凡その相手のことを知れたとも言える。
これは片方が静かにしていることによって、先々お互いが不幸にならなかった幸運な例だと思っている。
そうして幾多の出会いを繰り返すうち、2割も話さない相手が必ず出てくる。
海外にいる連中は最初からそんなケースであることが多く、彼らは一体どこでそんな間合いを習っているのかと思うほどである。
自分が2割、相手も2割じゃ、10割にならないじゃないか。
そう思う方もいるかもしれないが、会話はいつも10割である必要はなく、何なら会話はできるだけ多くの余韻を残し終わらせるくらいがいいと思っている。
映画や音楽は途中で途切れたら困るけど、会話は一度に全てを伝え切る必要やルールなどはどこにも無い。
プライベートなことを訊いてきたり、家族構成や仕事、どんな場所に住んでいるかまで尋ねてくる人、誰も聞いていないのにそれらを話してくる人は存在するが、僕の知る限り、仲の良い友人たちはどんな場所に住んでいて、普段どんな仕事をしているのかもよく知らないし、そもそもそれを知る必要性が無い。
その距離と関係は長年変わることなく、フラットである。
自分が話すでもなく、相手が語るでもない。
言葉にはできない間合いや雰囲気を持ち、静かな時を共有できる人に出会うことも、1つの旅なのかもしれない。