アプーは小屋から世界へ旅をする
彼の名は、アプーと言う。
残念ながらうろ覚えになってしまったのだが、彼はアリューシャン列島に住む先住民Aleut(アレウト族)で、おそらくこの末裔だという話を現地の連中とした記憶がある。
トップ画像に貼ったJpegのExifは2003と記録されているので、今から18年前の話。
アラスカ・アリューシャン列島にあるChignik(チグニック)という集落。
大雑把な地図だが、僕自身全く丁寧には生きてはいないので勘弁して欲しい。
当時は多くの人が見ていた進め!電波少年という番組があって、この頃は番組が終わって数年しか経過していなかったんだけど、お茶の間でテレビを見ていた頃はゲラゲラ笑いながらスクリーンの先で必死に旅をする猿岩石を見ていた。
他人事とは、つくづくすごい事である。
その僅か数年後、彼らの様にあんなに無謀で野放しでは無いものの、それに似たような経験をする事になるとは、夢にも思っていなかった。
こんな場所にも仕事がある事を幸せだと感じるか、そうでないと思うかは人それぞれだと思うけど、当時はスーツを着てニューヨークやサンフランシスコで商談!みたいなイメージに憧れていたので、スーツではなくゴツいブーツを持参しなければならないアラスカって何やねん…という気持ちだった。
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初夏のシアトル。
日差しが日本の光とは違う。
どう違うのか訊かれても正確に答えようが無いのだけど、日本よりも乾いた光という表現があるなら、きっとそれだ。
オフィスで旅程の最終打合せを行い、約3ヶ月間アラスカへ向かう事になる。
シアトル/タコマ空港まで送ってくれた同僚は朝から忙しそうだったが、助手席を降りた時、彼は片手で電話をしながらグッドラックと言い、ウインクをした。
僕が日本から持参したモノは重量物まみれで、筋トレに使えそうな巨大ノートパソコンに縮尺が明らかにおかしい世界地図と細かい電子製品、そして嵩張りがちな衣服に数冊の本だった。
ケータイに関しては高額な料金を払えば通じるのだけど、現地へ行けば固定電話とメールは使用出来るという事だったので、口を使う連絡方法は公衆電話のみに限られた。
アメリカの空港は2001年に世界を揺るがすテロがあったせいで、主要の国際空港は全域に渡り厳戒態勢だった。
気が遠くなる程の列を並び、2時間以上かけてチェックインをする。
ようやく解放されたかと思いきや、今度はセキュリティーで気に入っていたガスライターが持ち込めないという事で没収され、その日の機嫌はあまり良い方では無かった。
ライターを没収した職員は僕とほぼ同世代で、かなり申し訳無さそうにしていた。
当時イチローは3年連続で200安打を達成し、スーパースター街道を登っていた時だったので、僕のパスポートを見て
イチロー、ナンバーワン!!
と笑ってその場の空気を和やかにしてくれたのだが、何も言わず無視してしまった事を20年経過した今でも後悔している。
彼もそれが仕事なのだ。
アラスカ航空という世界ではマイナーな航空会社は、フレートも恐ろしく高い。
これでよく独占禁止法に引っ掛からないのが不思議だと思うくらいだった。
飛行機は程なくしてアラスカ州最大の都市であるアンカレッジに到着し、次の乗り継ぎ先を探す。
カウンターは割とすぐに見つかり、ペンエアー(Peninsula Airways)にチェックインを済ませる。
シアトルからはジャンボだったけど、アンカレッジからはサーブ2000という双発のプロペラ機になった。
乗客も一気に30名程度に減り、機内もギシギシという音を立てた。
次の経由地はキングサーモン国際空港という名前だったが、ずいぶんふざけた名前だなぁと思っていた。
空港名はもちろん聞いたことも無かったが、とはいえ一応国際空港と表記されているんだから、きっと人もたくさんいそうなイメージで、僕は国際という響きに少し安堵していた。
そう長くは無いフライトを終え、機内から降りる。
最後の乗り継ぎがあるので、機体のすぐそばにいた職員にチェックインカウンターの場所を訊いた。
「すぐそこにあるよ」
と指をさして教えてくれたんだけど、僕はトイレの場所を訊いていないので、トイレではなくチェックインカウンターだと訊きなおした。
「そこさ」
彼はもう一度、同じ場所を指さす。
恐る恐るそのプレハブ小屋へ向かうと、次の乗り継ぎの為の小さな木製チェックインカウンターが確かにあり、ペンエアーの服を着たお婆ちゃんが座っていた。
少しずつ不安になってはきたがチェックインを済ませ、フライトまでは待ち時間も短いので外でタバコを吸っていた。
時間が来てゲート(と言っても職員に呼ばれて滑走路を歩いて行くだけ)に向かうと、今度はパイロット2名を含む4人乗りのセスナ機になった。
この規模になると手荷物も預け荷物もヘッタクレも無く、ただパイロットがガサツにセスナ後方のスペースへ僕の荷物を投げていく。
かなり頼りないグラグラした席に座わり、もう1名の乗客が来るというので、それを待った。
音楽を聴くイヤホンジャック等ある訳も無く、機内には僅かに漂う香水の様な香りがした。
暫くしてパイロットが大きな赤いドラム缶を機内に運び込み、乗客のシートベルトへそれを締めた。
「これ、なに?」
と尋ねると、彼らはガソリンだと言った。
そいつを先住民のエスキモーに急遽届ける事になり、途中追加で別の空港を経由するから、目的地の到着が若干遅れるという事を説明された。
なんだか質問する事すら無意味に思え、なるようになれと思いながら、セスナはキングサーモン空港を飛び立った。
セスナに乗った方はわかると思うんだけど、横風を避ける為なのか機体は終始真っすぐを向いていない。
常にあらぬ方向を向いていて生きた心地がしなかったが、不思議なもので30分も飛ぶと慣れた。
窓から見える水平線が美しい。
数時間一度も人工物を見る事が無いまま、機体は高度を下げ、中継する空港へ降りる準備を始める。
だが、いつまでたっても空港が見えない。
もうかなり高度は下がっているのに、滑走路が無いので心配になってパイロットに訊くと、空港はその辺だという。
名も無きその空港は滑走路ではなく、砂利道というべきだった。
機体はあらぬ方向を向いたまま、静かに着陸した。
20分ほど待つと遠くから砂煙が見え、小さなボロボロのトラックで赤いドラム缶を引き取りに来たエスキモーがパイロットと何かを話し、パイロットはエスキモーが持ってきたカラのドラム缶を受け取る。
受け渡しは、2分も掛からなかった。
再びセスナは飛び、30分程度で最終目的地であるチグニック空港へ着いた。
着陸するとパイロットが持っている無線で僕宛にメッセージがあり、迎えのトラックがトラブルで少し遅れるので、30分程度空港で待って欲しいという連絡を受けたので、待つことにした。
さっきの砂利道空港とは違い、チグニック空港ならキングサーモン空港と然程変わらずだろうし、屋内でのんびり待とうと思っていた。
セスナは僕を降ろすと、休憩する事も無くあっという間にキングサーモンへ引き返していく。
遠くなるセスナを見送ったあと、空港のラウンジを見た。
いい加減にしてほしい。
しかもよく見ると"International Airport”と書いてある。
いくら僕でもDIYするならこんな雑な作りはしない。
中を覗くと学校にあった部活の倉庫そのもので、椅子すら無かった。
辺りはとても静かで、鳥の鳴き声すら聞こえない。
仕方なく小屋の前で待っていると、ようやく迎えのトラックが来た。
30分どころか、1時間以上待った。
運転手はアメリカ本土のスタッフで、迎えが遅れた事を詫びながらも、スムーズに宿まで運んでくれた。
翌日から仕事に取り掛かり、思った以上にオフィスは快適だった。
建物も基本は全て木製だけど、そこには飲食や電話もあって、かなり遅いがネット回線もあった。
オフィスの近くにはちょっとしたストアがあるというので徒歩で向かうと、コンテナごと店になっている商店があり、スナックにジュース類、お酒やツマミ等が並んでいた。
そのストアが唯一現代の人間らしさを味わえる建物で、仕事の合間やオフタイムになると人が集まってきた。
客の多くは本土から短い夏の期間アルバイトとして雇われる若い大学生がメインだった。
その中に、少し浅黒く日焼けした10歳になるかならないかの少年を見かけた。
冒頭の少年、アプー(Aput)である。
彼はその地に住まう先住民の子供で、人懐っこい性格だった。
若い学生バイト連中は彼にお菓子やジュースを買ってあげたり、まるで自分の弟の様に接していたので、僕に声を掛けてくるのも時間の問題だった。
日本から来た事を告げると、彼は大きな瞳で全くわからないというジェスチャーを恥ずかしそうにした。
数日が経過したある日。
午後は雨で作業がどうにもならないという連絡が入り、フリータイムになった。
木枠で出来た古い窓の外を見ると、小さな白い桟橋にアプーがいた。
彼は雨に濡れながら、釣りをしていた。
この季節の雨は暖かかった。
窓から大声でアプーを呼ぶと、少し待ってくれというジェスチャーをしたあと、僕の滞在するトレーラーハウスに入った。
ずぶ濡れの彼はそれすら全く意に介さない様子だったが、僕のモノが濡れるのも困るので、新しいタオルで身体を拭かせた。
彼はとても嬉しそうに部屋を眺め、昼からつけっぱなしのテレビの前に座った。
ケーブルが繋がっていたので本土の番組は殆ど網羅していた。
アプーは僕が子供の頃と何も変わらない操作の仕方でカチャカチャとリモコンを回し、やがてそれに飽きると僕に話しかけてきた。
「ねぇ、何か面白いもの無い?」
日本から持ってきた小さなお菓子を彼にあげようとしたが、彼は気味悪がって受け取らなかった。
無理もない、日本のモノなど見るもの全てが初めてである。
僕はスーツケースを漁ると、中から分厚い世界地図が出てきた。
なんでこれを持ってきたのか僕もわからなかったが、何かの役に立つだろうと思って持ってきた事には間違いない。
その地図は世界の都市ごとに街の写真や解説がカラーで印刷されていて、少し気に入っていた。
アプーにそれを渡すと、彼は言った。
「この文字読めない」
全て日本語で書かれた本だったので読めるはずも無いのだけど、彼が絵や写真だけでなく、文字を読みたいと言った事が少し嬉しかった。
僕は隣に座り、1つ1つ英語で説明していく。
彼の大きな瞳はランランとしていて、1つ1つ質問をしてきた。
日本の位置もやっとわかったようで、こんなに遠くから来たのかと驚いていたが、それはこっちも同じだった。
飽きることなく質問をしてくるアプーが可愛くて、いつのまにか2時間近くが経過していた。
彼の親が心配してはいけないと思い、そろそろ家に帰るように促すと、彼は少し残念そうに言った。
「また、ここに遊びに来てもいい?」
「もちろんだよ」
そう答え、釣り竿を忘れずに持って帰るアプーの後姿を見ていた。
彼はその後何度もトレーラーハウスへ遊びに来ては世界地図を見て、最初に来た時よりもずっと多くの国の名前を覚える様になった。
僕も彼がいない時、全てのページに簡単に英訳したルーズリーフを挟み、だんだん本がちゃんと閉まらなくなっていた。
1週間が経過し、チグニックでの作業を殆ど終えた。
明日からまた別の地へ向かう前夜も、アプーは僕の部屋に来ていた。
チグニックの夜はいつまでも明るく、冒頭の写真を撮った時間も22時は回っていたと思う。
夕焼けと星空が混じる不思議な光景は例えようも無く綺麗で、それがいつまでも続いた。
アプーの両親とは滞在期間に何度か会っていたので、家族は彼が遅くまで僕の家にいる事を許してくれた。
彼は僅か2週間で全世界にある200近い国を殆ど言えるようになっていて、僕よりとっくに詳しくなっていた。
明日から僕はいない事をアプーに告げると、彼は言った。
「僕はたくさん勉強して、大人になったら世界を旅したい。アツシに教えてもらった国をもっと知りたい。そしていつか、アツシのいるニホンにも行ってみたい」
僕は、その世界地図をアプーにプレゼントした。
受け取った彼は、大粒の涙をこぼして言った。
「もう、会う事は無いかな?」
「それは誰にもわからないけど、会いたいと思えばきっと会えるよ」
彼とは十数年後SNSを通じて再会し、あの瞳の大きいアプーは、アメリカ本土でフルーツの貿易商として世界中を旅している。
僕とアプーは間違いなく、あの小屋で0メートルの旅をしたのだ。