味のしない夜
恥という感情には、質と種類がある。
人前で転ぶ、何かを言い間違えるなどの恥ずかしさは、恥ずかしいけど恥ずかしくはなくて、誰もが起き得る。
けれど、恥にはもっと段階的なモノがあると思っていて、最高レベルの恥というのがある。
その種類の1つに、『必要とされていない親切を押し付けてしまった時の恥ずかしさ』というのがあって、その成分には己の独善や自意識が存分に混じっていることがあり、とりわけ恥ずかしいと感じる。
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中華人民共和国・遼寧省南部にある大連市は、人口600万人を超える大都市で、自分の目で見て知っている20年程度の変遷を見ても著しい成長を遂げた都市であり、街の中心部には高層ビルが建ち並ぶ。
司馬遼太郎の”坂の上の雲”は、日露戦争時代、大連市の旅順が舞台であり、その名の通り、市内には至る所に坂道がある。
大連市の緯度は日本の山形県辺りに位置し、冬はとても寒くなる。
1月、大連周水子国際空港に着陸すると、飛行機の窓から見える空港職員の息の白さと着ぶくれした服で、その寒さが想像できた。
空港で荷物を受け取ると、スーツケースから極めて収まりの悪かったダウンジャケットを取り出した。
いつもの出口へ向かうと、趙(チョウ)さんが満面の笑みでこちらに手を振った。
趙さんの乗っている黒塗りのサンタナは年季が入っていて、フロントガラスはいつも同じ場所がひび割れていた。
おそらくいつでも新車を買えるとは思うけど、いつでも正しく動くサンタナに、彼は何の不満も無いのだろう。
趙さんとは長い付き合いで、冬に会っても寒いとは言わないし、夏に会っても暑いとは言わないが、少しの身振りでふざけるだけで通じ合えた。
冷たい色の道路からは、薄い雪が風のせいでムカデ状に這い回り、普段はエアコンを強くしない趙さんがウーと唸りながら、一番暖かい温度設定にノブを回したが、吹出し口からの風は、さほど暖かくなかった。
こちらの都合でかなり急になってしまった仕事の依頼に対し、趙さんはなんとか目処を付けてくれたのでそのお礼を言うと、彼は手を振りながらモンダイナイを何度か繰り返した。
中国は何でも派手な色づかいをするイメージがあるが、高速から見える街の景色は灰色で、薄い色合いが続く。
元々、ここに何百年と続いたであろう田畑のど真ん中を、真新しい高速道路が横断していく。
寒さも相まって、素朴で少し寂しげな景色が、好きだった。
空港から2時間ほど北へ走った所に、目的の工場があった。
2階にある事務所へ向かうと、こちらの到着を待っていたエージェントの小李と合流し、打合せを始める。
1月はベトナム同様、中国でも旧正月の準備に入る為、どの工場も大忙しだ。
それにも関わらず引き受けてくれた工場の総経理にお礼を言い、一同は視察の為、工場へ入った。
工場の室内温度は低ければ低いほど理想なので、タイやベトナム等の熱帯気候ではエアコンをガンガン効かせている状態でなくてはならないのだけど、極寒の中国はその必要すら無かったが、寒いからと暖房を入れるのも本末転倒となるので、室内は外気温よりも低くなることが多かった。
これは北海道や東北でも同じで、彼らにとって冬はとても厳しい環境になる。
室内の温度計を見ると、3℃を表示していた。
入口で幾つか健康チェックを受け、手洗い場へ向かう。
その水を触った瞬間、痛みにも似た冷たさが手先を襲った。
毎日、こんな冷水で洗っているのか。
そう思いながら、工場へと入った。
たった数時間の打合せをして事務所へ戻る頃には、情けないほど自分の足先の感覚が無くなってることに気づいた。
昼飯を食べに、工場内の食堂へと向かう。
スイング式のドアを開けると部屋中を湯気が覆っていて、アクリル板を挟んだ調理場から、大きな寸胴の中に煮立ったスープが見えた。
工場には400名近くが働いているので、その食堂の大きさに驚く。
仕事中は寡黙な女工さん達も、この時だけは皆、笑顔を見せる。
隣に座り一緒に食事をすると、彼女達の手はしもやけ(凍瘡)になっていた。
工員達は出稼ぎ労働者も多く、隣にいるおばちゃんはロシアと国境を接している、黒竜江の伊春市から来たと話してくれた。
毎日、工場は寒いでしょうと話すと、伊春に比べれば大したことないと話し、周りの女工さん数人が大声で笑った。(*1月の伊春は-30℃以下になる)
彼女達はあと少しで1年ぶりに家族のもとへ帰り、孫や子供達へ色んな土産を担いで帰るのだろう。
小李の翻訳を介しながら会話は弾み、強くて優しい母達だと思った。
1日を終えホテルに戻ると、そんな工員達の為に、何か役に立つことはないかと考えた。
翌日。
忙しそうにしている総経理の元へ向かい、1つの提案をした。
工場の手洗い場の水を、少しでも暖かいお湯に変えてあげてほしい。
そうすれば、皆も喜ぶのではないか。
彼は少し驚いたような顔をしたが、すんなりその提案を受けてくれた。
その日の午後には工場お抱えの用務員が作業をして、あっという間に手洗い場に給湯器が取り付けられた。
これで、少しは仕事が楽になるだろうと思った。
事務所で打合せを済ませ工場に入ろうとすると、女工さん達が手洗い場の前で大渋滞していた。
多くの女工さんが中国語で何か不満の様なことを言っているので、どうしたのかと小李に尋ねた。
「いや、なんといいますか……女工さん達が、痛いって言ってるんです」
彼がなんのことを言っているのかよくわからなかったのだけど、よく見ると手洗い場でその問題は起きていて、しもやけになった手にとって一番辛いのは、暖かい(熱い)お湯に触れることだった。
工場は最初からそれを知っていて、手洗い場をお湯にはせず、普通の水にしていたのだろう。
手洗い場には、お湯になって喜んでいる工員は誰一人としていなかった。
設置して間もない給湯器が次々に止められ、一体誰がこんなことをしたのかとでも言いたげな女工さん達の前で、僕は居ても立っても居られない気持ちになった。
知りもしないことに首を突っ込み、独りでいい気分に浸っている自分の
”がさつ”さと独善、視野の狭さが恥ずかしかった。
渋滞する列の中に、昨日一緒に昼飯を食べた女工さんがいたので、そのことを詫びると、彼女はニコリと笑い、言った。
「没有!(メイヨー=大丈夫)あなたのしてくれた優しさは伝わっています。ありがとう」
そう言うと、大勢の女工さん達が大きな声で笑い、僕の肩をポンと叩いた。
何年もの経過を得て変化していないモノというのは、蓄積された多くの経験から1つの今を作っているのであって、昨日今日訪れた人間がとやかく口を挟むべきことではないことを学び、結果的には彼女達の優しさに救われた。
その日の夕食、趙さんと小李は笑いながら気にすることは無いと言ってくれたが、いつもはキツくて不味いはずの白酒(パイチュウ)が、彼女達の笑顔を思い出せば出すほど、その味がしなかった。
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