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無意識に引かれた一本の線
無期懲役で45年に渡り刑務所で制作をつづける、刺青の彫師で獄中の画家「絆」氏の個展開催に向けて準備を進めています。
当初予定していた会場での開催が難しくなり、絆氏に別会場での開催を提案したところ、当初の会場にこだわりたいとのことで頓挫しかけましたが、その後、オンライントークやグッズ販売など、考えていた企画の詳細を送ったところ、会場にはこだわらないからぜひ予定通り年明けに開催してほしいとの返事を受け取るのに、往復で1週間くらいはかかる手紙のやり取りが何度かかかったため、フライヤーの印刷が予定よりもかなり遅れ、会期も1週間ほどずらして2月に行うことにしました。
できたフライヤーはこちら
獄中の画家個展「獄中からの光」特設サイトはこちらhttps://kizuna45.mystrikingly.com/
ということで、年末の仙台市内をやっとできてきたフライヤーを持ってまわり、文化施設に置いてもらったり、ライターをしている雑誌社の仕事納めのランチ会で「せっかくだからみなさんに紹介したらどうか」と会長に言われていあわせた方々に聞いてもらい、いろんなアドバイスをもらったり、懇意にしている画材屋に行って展示方法の相談に乗ってもらい、額の発注などをしたりしました。
私が個展を開こうとしている絆氏は、刺青の彫師で無期懲役の受刑者。私にとっても受刑者と何か企画をするのは初めてのことではありますが、いつもどちらかというと「普通じゃない人」といっしょに何かをしたり、したいと思っているので、全然気にせず進めていたのですが、本格的に動き始めたとたん、いろいろと出鼻をくじかれる事態が起こり、その画風や経歴からなのか、「何かあったらどうするんですか」的な話がたちふさがり、そうした「普通の人」のメンタリティがわからないことを、これまではポジティブにとらえてきたのですが、でももしかしたら今までやって来たようなやり方が通用する時代は終わって、「普通の人」の不安にもちゃんと寄り添い、しっかりと配慮した企画を考えないといけない時代になったのかもしれないと、あれこれ考えるようにしてはみたのですが、でもなんだかよくわからないし、そもそも自分が間違っているとも思えないので、自分がフリーハンドでハンドリングできる体制でやろうと仕切り直し、新たな会場での開催へと動き出してみたわけです。すると、「普通じゃない人」に囲まれているためなのか、私があまりにポジティブにすぎるのか、会う方会う方みなさん協力的で、「おもしろい!」「心をわしづかみされた」「そういう人よく来るから全然気にしない」「絶対見に行く」「買うかも」など、ありがたい気持ちでいっぱいです。
懇意にしている新聞記者の方は、ご自身が過去に取材された教誨師の記事を添付して送ってくれました。
「受刑者と一緒にいて怖くありませんか」
学生から質問が飛ぶ(…)何気ない若者の問いかけの中に、無意識に引かれた一本の線が透けて見える。他者へのちょっとした想像力を拒む線だ。
「怖くないよ。同じ人間だよ」
善悪はもっと混沌としていて、簡単な線は引けない。
正直、私は絆氏のことも彼の絵のこともよくわかりません。10通くらい手紙を受け取ってはいますが、会ったのは一度切りで、全然その人柄もわからず(手紙なのでこちらが聞きたいことよりもあちらが書きたいことばかり届く)、そもそも私はあんまりひとやひとの絵に興味のない人間で、よくないことだとは思うのですが、その人の経験した「普通じゃない」部分に興味を持って、それを「作品化」するだけで(これまでに88歳といっしょにラップを作ったり、障がいのある人とアイドル活動をしたり、こどもと何をしてもいい場を作ったり、外国人と好きなことをやったりして来ました)、その人や作品にほれてその人のために何かをしたりといった姿勢ではやって来ませんでした。だいたいそういうことはできないと思います。また、その背景にある問題を浮き彫りにして世の中を変えようといったことには、すごく興味はあるんですが、私には何もできないだろうと思っています。
そんな私がこんなにも自由に好きなことをさせてもらえる社会が現に存在しているということ自体がすごいことで、そのことを伝えるためだけにこうしたことをやっているのではないか、そして今回の絆氏の個展もそうしたことを証明するためのものなのではないか、などと考えながら、今日もちょっとずつ準備を進めています。