シンギュラリティの足音
日経電子版の記事【「AIには勝てず」 韓国トップ棋士が引退】は、「(記事より)AIの登場で、死に物狂いで第一人者になっても最高ではないことがわかった。どのみち勝てない存在がある」として、韓国トップ棋士が引退したというリポートです。
この記事を一読して、2045年頃にも到来すると言われている『シンギュラリティ(技術的特異点)』、人工知能が人類の知能を超えるとされる時の歩み、『シンギュラリティ』の足音が聞こえたように感じたのは私だけでしょうか?
それにしても、この記事で印象的なのは、次のくだりです――
(記事より)
「妙な気持ちだった。ディープマインドの連中は自信満々で、対局前から自分が負けているようだった」
この発言から浮かび上がってくるイメージ(あくまでイメージ)は、AIを開発する側の人間が、AIによって人間を打ち負かす事に嬉々としているシーン(実際には違うと思うが)であり、何とも皮肉なイメージです。
――このイメージをもし肯定的に解釈できるとすれば、囲碁の素人である技術者がAIを使いこなしてプロを打ち破った、つまり、あくまで人間が人間に勝ったのだ、とも考えられます。
――一方で、AIが自律的に全く人間の手を離れて、次々と人間の領域を侵食し支配していくスーパーインテリジェンスを、わざわざ人間自らの手で作ってしまう、技術開発にまつわる諸刃の剣の象徴のようにも思える……
どちらであるにせよ、本当にAIには勝てないのだろうか?
――この問いに対しては、そもそもAIと人間は異質のものであり、争う必要はない、膨大なビッグデータを高速で処理できるAIと競う事は、馬と駆け比べするようなもの、馬と人類が共存しているように、AIと人類は共存・協働の道を探るべきだ、との声が聞こえてきます。
――徹底的にAIと競い合うにしろ、共存共栄の道を探るにせよ、確かな事は、今、人類は、自らの何たるか、自らの特性、存在意義を問い直す時に来ている事は確かなようです。
それでは、AIと人間の違いとは何なのか?
――人間の脳に模して造られたニューラルネットワークの深層学習も、完全に人間と同じな訳ではなく、そこにある違い、人間の独創性(論理的飛躍)や思考の揺らぎ、感情といった特性を最大化・最適化できれば、人間にはとても扱えないビッグデータを高速で解析するAIとは別の価値を生み出せるのではないか……。
――同じもの同士の勝負は『性能(戦力)』と『方法(戦術)』で決まってしまうかも知れませんが、違うもの同士には性質の差、『特性(戦略、生存戦略)』というものがあります。
日々AIに関する情報が飛び交い、日経電子版にもAIの文字が躍らない日はないなか、『シンギュラリティ』が起きると言われる日が着実に一歩一歩近付いてくる中で、人間の存在意義を再定義し、優位性を確認する事が求められているのかも知れません。はたしてAIという存在は、人間のさらなる進化を促す淘汰圧として私達の前に立ち現れてきたものなのでしょうか?
追記:
イーロン・マスク氏の有名なニューラリンクの、BMI(ブレーンマシーンインターフェース)による脳とAIの接続が実現すれば、そもそもAIと人間を対立軸の中で考える必要がなくなります。AIは、人工知能( Artificial Intelligence)というより人間の拡張知能(Augmented Intelligence)と再定義した方がよく、人間‐BMI‐AIは、AI単体より強いはずです。
その意味で、BMIは、『シンギュラリティ』に臨む人間にとって、一つのソリューション足りうるのかも知れません(前提として、AIの側がBMIを通して人間に影響を及ぼさないようなセキュアな環境があること、は言うまでもありません)。