同じではないけれど対等 - ダッシュ太尾の理念
ダッシュ太尾は、これまで子ども達の自主性に任せて自由にやらせてきました。
喧嘩やもめ事があっても、子ども達だけで解決するのが基本。
何がよくて何がよくないのかは子ども達で考えてね、というスタンスからルールも決めていませんでした。
一方でダッシュ太尾は完全にオープンな集団です。
走るのが好きな子、足が速くなりたい子、たまたま公園で見かけて参加した子などなど。
ですので、年齢も経験も能力も本当に様々な子が集まっています。
傷つける子、傷つけられる子
その結果、力の強い子や年長者が立場の弱い子を言葉や態度で傷つける、ということが散見されるようになりました。
このような行為が繰り返されては、傷ついた子はもちろん、傷つけた子もまた問題を抱えたままになってしまいます。
ただ単純に子どもを信じて、子どもの自主性に任せる、という僕の理想は甘かったと、反省しました。
ただ自由にさせていては、荒れてしまう。
かといって、モグラたたきのように、あれはダメ、これもダメ、とルールをたくさん作るのでは子どもの自主性を損なうばかりか、そもそも子どもを信じていないことになる。
そこで、僕がダッシュ太尾の理念を作り、それをみんなで共有した上で、子どもの自主性に任せる、というのはどうだろう。
いろいろな人と会話をする中で出した結論です。
理念を共有する
そして今日、練習前にこの理念について以下のスライドを使って子ども達と話しました。
そもそも理念ってなに?というところからの話でしたが、みんな(予想外に)真剣に聞いてくれていました。
「得意なこと、不得意なこと、持っているもの、経験や知識、持っているお金、性別、外見、誰一人として同じ人はいない。」
ここまでは、みんなすんなり納得の様子でした。
同じではないけれど対等
でも、その次の「みんな同じではないけれど対等」という言葉に敏感に反応した子がいました。
ここについては、すんなり納得はいかないのです。
確かに力や性別、お金で貴賤が決まった時代が昔はありました。
でも人間はそれを乗り越えて、今は(少なくとも日本は)誰もが対等な時代になりました。
「同じ人間だから」と言ってくれた子もいました。
「天皇は?」という質問や、「動物は?」という質問もありました。
いろいろな疑問を持ったり、それを人と議論することは、単に言葉として覚えるよりも、より自分事として心に刻まれると思います。
ゆっくりでも「同じではないけれど対等」という意味を考えて、共通の理解にしてほしいと思います。
平等と対等の違い
また、平等と対等は違う、という話もしました。
生まれ持った能力や環境は平等ではない。
平等ではないけれど、みんな対等なんだよ。
そんな話をすると、すっと納得した様子の子もいました。
ちなみに、今日話した「同じではないけれど対等」には年齢も含まれています。
僕も君たちと対等、という意味です。
「親とも対等?」という質問もありました。
僕は対等と答えましたが、そこも含めてそれぞれのご家庭の判断で議論をしていただくといいかと思います。
学びとこれから
今回の事は、本当に僕の勉強にもなりました。
自由だけではいけない。
信頼できる大人の大きな考えが子ども達を導く。
その大切さを身をもって体感しました。
この問題はまだ終わっていないですし、理念を共有したこれからが大切だと思います。
ご意見あれば、ぜひお願いします。