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札幌読書ノオト15  現在と過去をつなぐもの


SAPPORO読書ノオト 15A

読書ノオト 壱伍A 近況報告

エロス/広瀬正(1971年11月25日発行)河出書房新社

マイナスゼロ/広瀬正(昭和45年10月15日発行)河出書房新社

マスクが、入手できない。コンビニ店は、マスクを陳列する場所を空けたままで、店にないことを無言で示す。仄聞するには、入荷の時日に並んで待てば買えるらしい。24時間営業の店では、開店前に並ぶなどできないから、Yodobashiで購入したNINTENDOのWiiのように並ぶ場所が指定されているのだろうと推察する。

しかし、舛添要一氏が厚生労働大臣のおりに新型インフルエンザへの対応が問題となり、この度の問題と同じくマスクが店頭より消えたことがある。その騒動が収束した後でマスクを一箱買っておいたように記憶している。

探してみると、50枚入りと書かれた箱が出てきた。舛添大臣のころは2009年、およそ10年前に購入したものだろう。中のマスクは、外見古びておらず、これで並ばずとも済むと安堵した。就職して最初の2年過ごした銀座2丁目のうらっかわは、ランチタイムは並んで待つのが当たり前だった。東京は並んで待つのがあたりまえの世界と理解したが北海道で生まれ育った者としては、慣れることなかった。

並んで待つのが当たり前になったのはいつのことだろう。戦中戦後の食糧配給は並んで待ったとの記述に触れたのは、「戦争中の暮らしの記録」(暮らしの手帖社)だった。このことをDNAに記録された戦後派(昭和20年以降に生まれた人たち)が、グループサウンズ全盛期にライブのチケットを並んで買う「不良」となり、バブル期の世代が同じくライブチケットを徹夜で並んで買う「不良行為」を応援する親の世代となる。ポットに入れたコーヒーや味噌汁を差し入れする姿を新聞のコラム連載で読んだことがある。ロカビリー、GSのころは、「親の理解」という言葉がキーワードだった。そこに「家出」が対置される。近代的理性と家族主義がごちゃ混ぜに語られ、どちらも未消化なままに旧来の価値観を否定することがかっこよいとされた。そして「書を捨てよ街へ出よう」(寺山修司)とのアジテーションに呼応する。一足飛びの結論となるが、戦中戦後からバブル世代に至るまでも「同調圧力」、「付和雷同」は、その心性に通底しているのだろう。ライブハウス札幌ローランドゴリラは、手指消毒用のアルコール、マスクを置いて衛生に気遣っている。筆者が「マスクは、どこで入手した?」と尋ねたところ、商売柄で常時ストックしているのですとの返答だった。そういわれてみれば、ロックバンドも暴走族もマスクをつけている。「マスク姿はカッコ良い」のだろうか。ボクは、作家デビューして数年で世を去った広瀬正の小説を思い出した。

彼女は冬の間はいつもマスクをしていたが、さすがに五月とあって、もうしていなかった。昭和九年の一月に流行性感冒がはやったとき、マスクをかけることが流行したが、それ以後、日本人は冬になるとマスクをかける癖がついてしまった。デパートでは、ビロードや革製の色とりどりのマスクが売られ、人々は、あきらかに冬のアクセサリーの一つとして、それを使用している。慎一のグループでも去年、これがいちばんイキなんだといって、ガーゼのマスクをかけるのがはやったものだった。

「エロス」広瀬正(河出書房新社)(P150)より

伝染病が与えた影響として知られているものに「英国人は、野菜料理を作る際に元の形が判らなくなるまで火を通すのは、中世に起きたペストの蔓延に拠る習慣」がある。ボクは、広瀬正の記述した昭和9年の流行性感冒の影響で、マスクをかける習慣ができたという日本の風俗史のエピソードから考える。現在のマスク「買い占め」「転売」という振る舞いに、ボクたち日本国民は理性と品性を失いつつあるものと感じている。

読書ノオトの復活は、約半世紀前に物故した作家広瀬正を紹介することから始めたい。東京京橋に生を受けた才人広瀬正は、戦後ジャズバンド「広瀬正とスカイトーンズ」で音楽雑誌人気バンドコンテスト2位(1位はクレージーキャッツ)となり、趣味のクラシックカー模型製作では欧州の会社の顧問名刺を持つ世界的モデラーであり、同人誌宇宙塵に本格SF「マイナスゼロ」を発表し、パロディギャングの一員として文筆活動を行なっていた。三島由紀夫と同学年であった江戸才人と冠したくなる作家広瀬正については、以下の文章が簡明に事実と作家への評価を伝えてくれる。ボクは、「鏡の国のアリス」出版の時(オンタイム)に書店で腰帯に記載されたこの文章を読んで、感銘をうけて涙する思いであった。司馬遼太郎の声涙俱に下る名文である。


私は作家広瀬正という、強靭な数量的構成力をもちつつ、しかも透きとおった抒情性のもちぬしに一度もあったことはないが、しかしその作品の熱心な愛読者の一人であった。 かれは自分の人生の終わりが近づいていることを予測していたように、あわただしく三つの作品を書き、四作目のこの 『 鏡の国のアリス 』 を書きおえたとき、白昼、路傍でたおれ、卒然と逝った。 作家の非業の死が相次いでいるが、もっとも作家らしい死を遂げたのはこの無名にちかい作家であったことを思うと、その作品群とその生死をあわせて考えて名伏しがたい思いがせきあげてくるのをどうすることもできない。 (司馬遼太郎)

*文中の「作家の非業の死」は、三島由紀夫1970年11月25日、川端康成1972年4月16日の自死を指すものと思われる


もうひとつ引用したい

1972年3月9日広瀬さんは、赤坂見附を歩いていて、たおれてなくなった。

(広瀬正・小説全集3/月報田中小実昌「十一ヵ月前の夜」より)

約半世紀前に亡くなった広瀬正という作家の名前、著作を知る人は、少ないだろう。しかし、河出書房新社は広瀬正・小説全集を出版し、現在は集英社文庫に引き継がれて容易に入手できる。ボクは書棚から広瀬正・小説全集3 エロスの月報を探し出した。田中小実昌、豊田有恒、野田昌弘が寄稿している。本編の解説は小松左京だ。存命しているのは、豊田有恒だけ。そりゃそうだ、半世紀前の書籍ではないかと、ボクの理性が語る。さみしいねと、老いたボクの感性が独り言つ。

二〇二〇年三月二五日

新型ウィルスの猖獗極めた武漢は、中国政府による対策が功を奏して封じ込めができそうだとの観測報道がなされている。新型ウィルスは、症状特性、致死率など確認しきれていない状態であるとの報道もあるなかで、随分と楽観的な観測と思う。筆者は「中国共産党筋から得た見解なんだ」としたりげに語るマスコミ関係者の姿を想像(空想)している。かって「田中角栄研究」の「報道」に接した新聞記者たちが「そんなことは、知っている」と嘯いたことと二重写しになって、想像している。日本の報道機関は、独自調査報道ではなく権力中枢に阿るだけとまでは、決めつけない。しかし、天安門事件で中国当局の担当者に実況中継をやめるよう通告され、それを拒絶する話し合いを実況中継したのがCNN。天安門を見下ろすことができるホテルの部屋にいて「窓から天安門広場を見下ろすことを禁じる」との中国当局の通告をそのまま報じたのが日本の新聞(全国紙)だった。そうだ、光州暴動の実況中継を赴任先の海外で見ながら、なぜ日本のマスコミによる報道がないのだと切歯扼腕する伊藤正孝の文章も思い出した。ベトナム戦争報道では、アメリカによる北ベトナム爆撃後の現地に中国経由で入り報道した大森実、南ベトナムからベトコン(南ベトナム解放戦線)が実効支配する戦火の村に入って報道した本多勝一がいたのだがと、書いてもせんないことだけは感じている。

日本政府の対策は、どうなのか。春節の中国観光客を受け入れたこと(札幌では、札幌雪まつりを通常通り開催したこと)は、「漫然と手をこまねいている」と批判したい。その後の北海道知事の緊急事態宣言と小中学校休校、内閣総理大臣による全国を対象とした小中学校休校要請については、(北見で「クラスター」発生していた)北海道は、必要な措置と理解している(筆者も19日まで夜の外出を見送った)が、全国一斉の措置は、経済活動の混乱への素早い配慮措置を欠いていることが残念であった。

官房長官が市場に十分な供給を約していた「マスク」が、未だ小売店にストックされていないこと、「外食産業の店員に安定した「マスク」供給と接客時の使用を指導しない」のは、行政の怠慢であろう。自由民主党は、どうしたのだろうか。党人に多士済々であった頃に比して、行動力を失った現在を嘆く声は在野から出てこないのだろうか。それにしても「ライブハウス」を名指しで、危険なスポットと決めつけた行政/マスコミの愚かさには呆れている。

ボクが「武漢」との地名に連想したのは「武漢三鎮」という言葉だった。棟田博の著作で知ったように記憶する。調べると武昌、漢口、漢陽の三都市を束ねて、武漢(武漢三鎮)と呼ぶとある。漢口は、一九四〇年日本海軍漢口基地より重慶爆撃の援護戦闘機として零式艦上戦闘機11型が初めて空戦に参加した地だ。この一九四〇年という年は東京オリンピック開催が予定されていた年だ。一九三八年に返上している。同時に冬季オリンピック札幌大会も予定され返上している。二〇二〇年東京大会でのマラソン会場を札幌とすることが不意に決まったとき、一九四〇年札幌大会の返上という因縁を思った人も、いるだろう。漢口(武漢)は、日本からの距離、重慶までの距離、上海、南京、開封といった都市との距離感が想像しうる要地であることと思う。その地理的特性から、自動車産業への部品供給地帯となっており世界の経済活動に影響を与えることになる。日中戦争(日本呼称「支那事変」)当時でも重要な都市とされていたのだろうが、2019年10月に史上最大規模の世界軍人運動会(夏季大会)が開催されたれっきとした国際都市である。ミリタリーワールドゲームズMilitary World Gamesと呼称される。International Military Sports Council; CISMによって組織される軍人スポーツ選手の総合協議大会である。1995年ローマで開催されてから4年毎に行われ、昨年の武漢は第7回となり109カ国の軍人9308人が参加した。インターネットに流れる怪説では、昨年来米国で死者数一万人(患者数千九百万人)を超えたと報道されていた新型インフルエンザが新型コロナウィルスの正体であり、この第7回世界軍人運動会が開催された武漢に米国軍人がウィルスをもたらしたものだとする。どうなのだろう。事の真偽は、やがて解明されるだろうか。AIDS(後天性免疫不全症候群)の原因であるHIV(Human Immunodeficiency Virus)の発祥がアフリカ大陸であるとされているが、米国で発見された病気である(1981年にアメリカのロサンゼルスに住む同性愛男性(ゲイ)に初めて発見され、症例報告された)。かつて、コロンブス1492年「新大陸発見」から世界に伝播したのは、煙草と梅毒だった。日本への伝来は、煙草が1542年鉄砲の伝来と同時で、梅毒は1512年のことになる(文献に記録が残っているそうだ)。

その武漢に発する新型コロナウィルスは、ワクチンなく特効薬なく研究開発中であったが富士フィルム/富山化学で開発されたアビガン-抗インフルエンザウィルス剤に治療の効力あることを中国政府が発表した。

アビガンは、エボラ出血熱の治療にも一定の効力あることが確認されているが、副作用として、サリドマイドと同じく催奇形性もつことが確認されている(動物実験による)。このため「新型インフルエンザが流行し、他の薬剤が効かないと日本国政府が判断した場合に、厚生労働大臣の要請を受けて製造を開始するという特殊な承認となっている」(Wikipediaより)。現時点では、日本政府より備蓄のために発注された200万錠がストックされている。通常の成人で、一回の治療投与に40錠を要する。5万人分になる。詳細はWikipediaを参照されたい。この数日で、新型コロナウィルスへの適用について記事が付加更新されている。

*催奇形性 妊娠中の女性が薬物を服用したときに胎児に奇形が起こる危険性のこと

二〇二〇年三月二七日

「おっさんはアブラゲが好きだね」

「この焼きたてに醤油とトンガラシかけたやつは、焼酎のサカナに絶好よ。」

(広瀬正全集第三巻「エロス」P44)

高校生の時にこの文章を読み「既視感」にとらわれた。TVドラマで、この会話を聞いている。小学校高学年だったか、中学生の時であったかは、憶えていない。ドラマの名前もチャンネルも失念している。しかし、母に頼んで、焼きたてのアブラゲを作ってもらったことは、記憶している。亡き母は、更年期障害を理由に中学生になったボクの昼食弁当をつくってくれないうえに中2の一年間で10センチ以上身長伸びたボクが着る学生服修繕もしてくれなかったが、こういった類の依頼には応じてくれた。例えば、11PMで三島由紀夫「花盛りの森」初版本を白手袋で扱う古書販売業の人物を見て、母に正絹の白手袋買ってくれとねだると三越デパートで買ってきてくれた。特攻隊の白いマフラーは売っていなかったそうで、ダメだった。。

ボクにとって、広瀬正の小説を読み返すことは、札幌オリンピック開催の一九七二年前後の時代にタイムトラベルすることだ。「マイナスゼロ」は、昭和前期の東京のイメージに魅了され、人物描写、男女交際のときめきを洒脱に語る文体と緻密な論理展開に感心していた。その読了後にラジオで聞いた「生きがい」(由紀さおり)の囁くような歌声と住む家から一歩踏み出せば、山鼻地区西屯田通りの薄暗がりになり銭湯があった。そこの路上で殺人事件があった。その場所を朝日新聞の夕刊は、「すすきののはずれ」と報じていた。確かにアパートの多い地区で薄野で働く女性が多く住んでいた。南10条西12丁目が「すすきのはずれ」と表現できるか、地元の皆さんの意見を聞いてみたい。克美しげるがエンペラーでのライブ後に道警に逮捕されたこともここで読んだように思う。その記事には「いつになく上機嫌であった克美しげるは、最後におはこのエイトマンを披露した」と結んであった。さて、「エイトマン」から連想すれば桑田次郎(作画)平井和正(原作)前田武彦(作詞)と名前が出てきます。故人の名前ばかり出てくるのが、辛い。

読書ノオトの最新版との意気込みあるけれど、お会いしたことのない人たちに読んでいただくことに緊張しています。お会いしたことのない皆さん、活発なご意見を寄せてください。

以上

読書ノオト 壱伍B

「感染症の世界史」(石弘之)角川ソフィア文庫/Kindle版

二〇二〇年三月二八日

このたびの天変地異(伝染病は地震雷と同格)で注目しているのが、テレワーク(リモートワーク)が根付くのか、否かです。。

ボクが就職した頃でも制度として確立されているようで、有功に機能することなかったように思えます。すでに先導的試行の事例があり「リモートワークにすると、会社にサボりに来るんだ」という冗談ともつかぬことを聞かされたことを覚えている」

*先導的試行 戦後の公教育は、6・3・3制と呼ばれた。1960年代から1970年代にかけて、GHQ「指導」のもとで作られた戦後改革の見直しが進み4・4・3制が提言され、実際にその制度による公教育を一部で開始した。新聞報道には、「先導的試行」とする政府当局者談話が掲載されていた。失敗を恐れていては、制度改革できないではないかと記者に意欲を語っていたと書かれていたこと覚えている。その「実験」の対象となる人たちの将来に保証はあるのかということは、気になると子供ながらに思っていた。その後、4・4・3制とう言葉聞かないことが、その結果を示していると思う。明治の初めに森有礼が日本の国語を英語とすることを提案していたことが伝えられているが、鹿児島で、その教育実験が行われていたようである。小学校から、国語教育を英語で行っていたため、実験対象者は、社会に出てから苦労したといわれている。

どんな時代だったかな。日本語ワードプロセッサない。FAX普及していない。携帯どころか、ポケベルもなく、喫茶店は、レジのそばのピンク電話で業務連絡する営業マンが一日中、出入りしていた。ワープロ、FAXない時代の営業職に就いたボクは、事務職の女性に清書してもらった見積もり持って、客先で打ち合わせ、修正する部分を確認し、「明後日には、修正した見積もり持ってきます」と言って、「それでいいですよ」とお客さんに言われたことを覚えている。見積一枚作るのでも手書き清書する。それは、事務職の女性に書いてもらう。その人たちは、残業しない(させない)ことが常識であった。ゆえに作業の余裕見ることが必要となる。社員の採用に際して「自筆の」経歴書提出を要するとしたのは、字の巧拙を見たいからだともいう。これが契約書の作成ともなれば、和文タイプを依頼することになる。主婦の内職に和文タイプという職種があった。専業ではないため、作業レスポンスが長く、のんびりした時代だった。

それが、「(ワープロで)修正したのを(FAXで)送ってよ、届くまでまっているから」と言われて残業せざるをえなくなる。やがては、中央省庁の担当者が地方自治体の担当者にメールでエクセルの集計表送って、「オタクの予算詳細入力して、でき次第メールしてよ、泊まり込みでずっといるから、何時でもいいから」と言うんだとの愚痴をきかされる時代になった。このインターネット用サーバ機器の導入が契機となって、コンピュータメーカーによる非互換性の障壁が破れていく。同時に供給する側による価格統制もできなくなっていく。変人小泉総理大臣が登場し「自民党(既得権益)をぶっ壊す」ことで、地方自治体も従来の牢固とした「入札」をやがて否定することになる。地方社会自体も駅前商店街がシャッター商店街となり、都市の商店街は、専門店が廃業した後にマンションとコンビニが建築されている。ボクが住んだ21世紀初頭の東京都品川区戸越の商店街は2年間専門店が次々に廃業し続けていた。そもそも「大店法」の改定が大きな転換点となっているのではないか。それは、2000年森内閣のときだ。やはり清和会だ。

二〇二〇年三月三〇日

志村けんは、ドリフターズのボウヤあがりの人だ。ボウヤと呼ばれた最後の世代かと勝手に想像していたが、あるブログに横山剣がクールズのボウヤだったと記されていた。北海道知事が緊急事態解除を宣言したあともお客さんの戻らぬ居酒屋で「最後のボウヤ」かなと志村けんと同学年の店主に話しかけた。「そうだなオレと同じ歳だからな」と佐々木譲原作「暴雪圏」のお芝居を肩並べて見物にでかけた仲のボクに気安く答えてくれる。「SAPPORO読書ノオト壱四 重箱の隅を~の六深夜のディスカッション」にMとして、登場していただいた方だ。志村けんの訃報に接したあと、ボクのほかに客のいない居酒屋での会話だった。Mさんが薄野のシャンソン・バーでフロアマネージャーの経歴持つことを聞かせてもらった。H文堂の経営する喫茶店でバーテンダーとして働いていたこと、若くして(カウンターだけの小さな)店を任されたこと、毎晩細川たかし(東京で歌手デビューする前)がステージに立つ前に来て珈琲を飲んでいったことは聞いていたが、あらためて聞くと往時の札幌の街並みが思い出されボクに強い影響を与えた世代、当時の若者たちの颯爽たる姿と二重写しになる。志村けん、細川たかしが同じ年の生まれ。村上春樹が同じ学年と思っていたら、1949年1月生まれで、一年上で舛添要一氏と同じ学年だった。ついでに佐々木譲を調べてみるとMさん、志村けんと同じ1950年の早生まれだった。団塊の世代と呼ばれた。「多士済々」と書こう。1948-1950の三年間、出生数270万人/年。ボクの生年(1956)は、170万人だ。直近の2019年は86万人(推計)。日本のポツダム宣言受諾により第二次大世界大戦が終わり、兵士として駆り出された男たちが国に帰り、結婚するもの、女の待つ家庭に戻るものが、世界中で一斉に子を為し家庭を築き上げていった。そのベビーブーム世代が60年代後半から70年代に社会に影響を及ぼすことになる。

二〇二〇年四月一八日

 人間ドックで書類をわたされて、 検診の前にさまざまな 質問の回答を記入せよという。 面倒な書類なので いい加減に欄を埋めて提出したら、 若い看護師さんから「既往歴をしっかり記入してください」とたしなめられ た。  しかたがないので「マラリア四回、コレラ、デング熱、アメーバ赤痢、リーシマニア症、ダニ発疹熱 各一回、原因不明の高熱と下痢 数回……」と記入して提出したら「忙しいんですから ふざけないでください」 と、また叱られた。

「感染症の歴史」(石弘之)後書きより

数年ぶりの読書ノオトは、随分とのんびりした書き出しだったと、いまさらに思う。「昭和ひとけた」以降の世代論に向かって行くつもりが、スペイン風邪以来の事件で、自宅にこもることになり、当初の漠たる思いは雲散したようだ。その中で作者の経歴知らずにあてずっぽうで読んだ本「感染症の歴史」だが、この後書き読んで頷いた。現場を踏んできた人だから書ける本だろうと。そして、いま紹介するためにぐぐり、経歴を調べて、もういちど驚いた。きっと伊藤正孝と同じ世代なんだろう。

朝日ジャーナル編集長として知った伊藤氏の著作でマラリア罹患に関する記述に触れるなどして、日本に尊敬するジャーナリストあることを感じた。宮武骸骨、桐生悠々を知り、時を経て不肖宮島に快哉を送るようになってからは、ジャーナリストの書に関心もたなくなったが、考え直すことにしようと思う。ジャーナリストによる記録もおいおい紹介していこう。

不覚にして未知であった石弘之氏は、歴史に渉猟し、医学知識に通暁している。

 この平安時代から鎌倉時代にかけては、疫病の流行をはじめ、大地震、火山噴火、大火事、飢饉、戦火などの災害が多発した。当時は対策としては元号(年号)を改めることぐらいしかできなかっ た。 これを「災異改元」という。 歴史上一〇二回あったが、そのうちの七一回までが平安鎌倉時代に集中している。この改元の理由の内訳は、 天然痘の流行が一二回、ハシカが七回もあり、この二つの感染症がいかに恐怖の対象であったかが うかがわれる。

石 弘之. 感染症の世界史 (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.3065-3070). KADOKAWA / 角川学芸出版. Kindle 版.

さらには、

 天然痘とともに新世界にハシカを持ち込んだのはコロンブスの一行だ。免疫がまったくなかっ た先住民 にとっては、破壊的な影響をもたらした。キューバでは スペイン人の持ち込んだハシカによって、一五二九年に 先住民の三分の二が死亡した。その二 年後にはホンジュラスで人口を半減させる流行が起き、メキシコやその他中米地域に拡大していった。

石 弘之. 感染症の世界史 (角川ソフィア文庫) (Kindle の位置No.3028-3031). KADOKAWA / 角川学芸出版. Kindle 版.

夜のすすきのめぐりは。国家の指針により5月7日まで控えることにした。外出は近所のスーパーと通院だけ。明日からは、健康のために日中は人影の少ない場所を歩いてみようと思う。桜の花便りが送れればと思っています。

以上


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