
「クレイマー、クレイマー」考察
大学の家族社会学の授業の課題で「クレイマー、クレイマー」(1979年、アメリカ)という映画を見た。1979年のアメリカというと、「『サラリーマン夫+専業主婦妻』の核家族」という近代化以降に定着した家族形態が、離婚率上昇や女性の社会進出によって揺らぎ始めたころである。この映画のクレイマー家も、サラリーマン夫、専業主婦妻、7歳息子という典型的な近代家族であったが、ある日妻が自身の「妻」「母」としての人生に絶望して家出をしてしまうところから物語が始まる。大学のレポートでは、授業で習った「近代家族論」になぞらえて書かなければならなかったが、この投稿では、映画そのものの考察について書いていきたいと思う(考察というより感想ですが…)。
※ネタバレ祭りですのでご了承下さい!
【冒頭15分】
妻・ジョアンナの家出によって夫・テッドは大混乱。クレイマー夫婦は文字通り完全に分業制をとっていて、テッドはこれまで家事にマジでノータッチだった。
家出をするシーンでは、お金の管理、クリーニングなどをジョアンナが行っていたことが分かる。そして、翌日の息子・ビリーとテッドが一緒にフレンチトーストを作るシーンでは、テッドがフライパンの場所を把握していないシーンがあった。というかフレンチトーストの作り方そのものも怪しかった。言わずもがなだが、彼は料理もノータッチだったのだろう。
極めつけはビリーを学校に送るシーン。「お前は何年生だ?」とビリーに尋ねる。え?マジで?!息子の学年すら把握していないってことある?しかも1年生って入学式とかあったばっかりだから忘れるはずないのに…これは脚本が露骨すぎないか?
息子のビリーはずっと一緒にいたママの方が好きにきまっているわな。それにしても登校時に「パパの手汗きたない!いやだ!」って言っていたが、思ったことや不満を素直にぶつけられるならまだマシじゃないかなって思う。仮にパパがもっと怖くてビリーが気を使って何も言えない感じだったら、打ち解けるのにもっと時間がかかったんじゃないかな。
【15~30分】
家でのシーン。パパとおもちゃで遊びたがっているビリーに対して、テッドは「仕事がもう少しで終わるから待ってくれ」と言う。そうこうしていると、ビリーがジュースをこぼしてしまう。するとテッドは「リビングにジュースを持ってくるな!」と激怒。いや、仕事を家庭に持ってくるなよ!リビングはジュース飲むところだろうよ!さすがにここはビリーに同情した。
ここまでの30分は本当にビリーが不憫でならない。慣れ親しんだママ主導の生活からパパ主導の生活に様変わりして、不満が募っただろう(スーパーでパパと一緒に買い物する時も、「ママはこれ買っていた」って言っていた)。同じ家に住んでいるはずなのに、違う家庭にいるような感覚。痛いほど分かる。
そんな中、ママから初めて手紙が来た時、ビリーは初めて笑顔を見せた。でも手紙には、「ママにはやりたいことがある」「一人で生きていく」と書かれていた。ビリーは不貞腐れる。そりゃそうよ。頼みの綱を失ったのだから。その後の朝食のシーンは辛かったなぁ。料理もせず、買ってきたドーナツを親子で会話もせず黙々と食べる。冷え切っている。
【30~60分】
育児に奔走した影響でテッドは仕事でミスをしてしまう。でも、家庭の幸せを考慮していない会社のシステム・価値観はどうなのよって思う。テッドは精一杯頑張っている。責められない。冒頭で「1日25時間、週8日働きます!」とテッドが言うシーンが冗談ぽく撮られていたけれど、当時はこれ割とマジだったのかな?
ビリーの怪我のシーン。ビリーを抱っこしながら鬼気迫る表情で走って病院に向かうテッド。処置の時にマーガレットがそばにいるのに「Stay, Daddy!!」と叫ぶビリー。このシーンは、2人の絆が深まってきたことを象徴するシーンであったと思う。
【60~75分】
テッドが上司にクビを宣告されるシーン。話の本題に入る前に、テッドが「息子に『パパ最近太った?』と言われたんですよ~」と楽しそうにビリーの話をする。職場の人間に家庭の話(雑談)をするなんて前のテッドからは想像もつかない。
父子でクリスマスツリーのオーナメントを一緒に飾るシーン。仲睦まじくて微笑ましいが、背景を見ると絵がたくさん貼られている。あの冷え切った朝食のシーンには壁には何も貼られておらず、なんというか、殺風景だった。「絵がたくさん貼られている」=「その分2人で思い出をたくさん作った」のだろう。このシーンをスクショして保存したかった。もうさぁ、裁判なんてやめようよぉ…クリスマスのシーンは微笑ましいけど、同時にもうすぐ裁判を控えているって思うと辛くなった。あと、テッドは新しいオフィスで自分のデスクの部屋の壁にビリーの写真を貼っていた。テッドすごく変わったね。
【裁判~ラスト】
ジョアンナの弁護人がすごく感情的。テッドにまともに話させない。ジョアンナも感情に訴えかける喋り。
テッドは自身の反省の意を口にした。そして冷静に「ビリーにとってのベストを考えよう」と言う。「良い親になるには性別関係ない」というセリフは考えさせられる。男女差別って「女性が弱い立場にいる」ってことが前提にあるものが多いけれど、テッドのこのセリフは逆差別というか、男性が不利になる差別・偏見もあるよなぁって思った。難しい問題ですね。
そんなこんなでテッドは負ける。親権はジョアンナへ。ビリーと別れる日の朝、父子家庭スタートの船出となったあの日と同じフレンチトーストを作る。でもあの時とは全然違う。テッドの料理スキルが上がっているのはもちろん、2人の連係プレー・信頼関係も見違えるほど。最初の日は、ビリーが指示してテッドがわめき散らかす感じだったけれど、別れの日は2人ともサイレントモード。熟練すぎて「言葉は要らねぇ」って感じ、なんだかカッコよかった。
ラストは衝撃。なんと、ジョアンナはビリーを連れて行かないという。2人の絆の強さを認識したってことかな。家出をした時と同様にエレベーターのシーンがあった。この2つのシーンの対比、
家出エレベーター:下り。ジョアンナ、自分を第一に決断。
ラストエレベーター:上り。ジョアンナ、子供を第一に決断。
こんな感じだろうか。分からん。実に難しい。
でも、裁判中に一つ疑問だったのが、ビリーがジョアンナのところに行ったとしても、前と同じようにジョアンナの愛情を受け取れるのかということ。シングルマザー(恋人はいるけれど結婚予定なし)で働きに出るということは、単純にビリーに割ける時間が減るわけだから。だから「愛情」が判決の判断材料にはならないだろって思った。
【全体を通して】
この作品、基本的にテッド視点で描かれている。ジョアンナ家出~ビリーと絆を深めていく~裁判。テッドの悪戦苦闘のプロセスは十分描かれているが、ジョアンナは「苦しかった」という”結果”だけ描かれて、プロセスは具体的なシーンとして描かれていない。弁護士との相談もジョアンナ側は描いていないし。そうなるとどうしても視聴者は、「これだけ頑張っているのだから」とテッド側に肩入れしたくなる。そして、ジョアンナは何となくヒール感があった。急に家出をして家を混乱させて、突然帰って来るやいなや「ビリーが欲しい」と言ってきた自己中な女という印象になってしまう。裁判の時は、露骨に「感情的なジョアンナVS理性的なテッド」というコントラストで描いていたし。極めつけは、裁判直後にジョアンナが「ビリーの怪我のことは言わない約束だっだの…本当よ…」と言ったシーン。ジョアンナが嘘をついていることを疑わせる。悪者感がすごい。
でも、ジョアンナだってそれまで5年ぐらいずっと苦しい思いをしてきた。帰ってきて「ビリーが欲しい」と言った時だって、相当な覚悟だったはず。それを描かないのは不平等なような気がする。
なんとなく、この当時はまだ男が強い男性社会が色濃い時代だったのかなと思う。女性が社会進出して時代が変わってきても、社会全体としてはそれを快く受け入れていなかったのではないか。女性の社会進出などは、あくまで「新しい価値観」であって、「当たり前の価値観」からは程遠かったと思う。この映画では、テッドもジョアンナも2人とも苦悩があったのに、テッドの方に肩入れしたくなるような演出にしたのは、そうした考えが反映されていたのかな。分からんけど。
【おまけ】
日本の「古き良き家族」の象徴的映画である「ALWAYS 三丁目の夕日」がネットフリックスで配信スタートしたので、こちらも久々に見てみたいと思う。