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娘の3つの教育方針をまとめてみた

ときおり、なんだかのタイミングで「娘ちゃんの教育方針とかあるの?」ってお友達の女子大生に聞かれることがあったりして、日頃色々考えることは当然あるものの、即答できなかったので、ちょっと言語化してみたくなった。

ざっと考えて以下3つではなかろうか。

  1. 好奇心をのばす

  2. 感情の言語化を出来るようにする

  3. 怒らない育児

これらをあげた理由としては、自分が大人になってから身につけた能力・特性の中で、社会で生きるのにとっても有用で、自身の幸福度に大きく寄与していると考えられるものを取り上げた。もっと早く誰かから教えてもらいたかったことトップ3かもしれない。

好奇心をのばす

まあ抽象的だけど、多くの人の目からも異論なく大事なことだと思ってもらえるのではないか。だがしかし、好奇心をのばして何が嬉しいのか。その本質的な価値はなんであるか?を考えてみたい。

ぼくは子供の頃から社会人になってしばらくの間、特に具体的な夢のようなものは持たずに生きてきた。それでも、まあまあ幸福だったし、特に大きな不満があるわけでもなかった。一方で、社会とは「〜せねばならない」ことの集合体で、それに則って生きるのが正しいことだと考えていた。

「生きていくために定職を持たねばならない」「多少嫌なことがあっても我慢しなければならない」「家庭を持って養っていかなければならない」などなど。要するに、社会なんて、人生なんて、そんなもんでしょと考えていたふしがある。この価値観にしたがって生きるならば、学校で勉強することも、テストでいい得点を取ることも、良い企業に就職することも、単に人生をいくらかマシにするための手段にしかならない。

ところが、ぼくが社会人になるとき、適当に選んだエンジニア/プログラマという仕事がとっても楽しくて、仕事の時間だけでなくプライベートの時間もふんだんにつぎ込んでプログラミングどっぷり浸かるようになり、「ああいうものを作りたい」「こういうものを作りたい」という意欲に溢れ、それが自分の能力を上げて、それが楽しくてもっともっと努力するようになり、というようなスパイラルが出来上がった。

それだけでなく、マネジメントや会社経営の仕事も、いろんな難局にぶつかってもなお、この問題を解決したい、これをもっとうまく出来るようにしたいというモチベーションで創意工夫を重ねてきた。これらの体験から、興味関心を持って取り組み、表層的なことだけではなく、物事の本質を理解しようとする活動は、知的でエキサイティングで、人生を捧げるのに値するくらいの意味のあることだと感じるようになった。

これは学問でも同じことが言えると思う。というかむしろ学問というのはそっちが本質で、人を測るための指標としての役割はおまけみたいなものだ。もちろん勉強はつらい。永遠とも思えるほどに続く苦痛の積み重ねだ。だからおそらく、ほとんどの人は勉強が嫌いだろうし、学問についてそんな風に捉える人のほうが少ないと思う。

だかしかし、ぼくは今大学生なわけなんだけど、勉強辛いが毎日が本当に楽しい。なぜなら大学という場所は「人生の中で最も、自分が知りたいこと、やりたいことを探求出来る場所」だからだ。自分が懐に抱えている好奇心のベクトルを思いっきりぶっ刺すことが許されている、ある意味ユートピアみたいな場所だ。

「楽しさ」にはいくつかの種類がある。1つは、ゲームをやって楽しい、友達と遊んで楽しい、漫画読んで楽しい。もう1つは、算数の問題が解けて楽しい、花の名前を覚えるのが楽しい、土星の輪っかが見られて楽しい。などのものだ。

前者は消費する楽しさで、人生を彩る大切な体験である一方で、あまり多くを積み上げてはいかないものだ。「今」を幸福にする楽しさと言える。後者は心を満たす楽しさで、出来ないことを出来るようにする、知らないことを知っている状態にする、という知的好奇心を満たす活動だ。これは「人生」を楽しいものにしてくれる。

だから娘にはそれを伝えたい。
娘が植物に関心を持ったら、一緒にお花屋さんに行ってお花を買って、毎日水を上げるように教える。娘が細胞に興味を持ったら、顕微鏡と酢酸カーミン(染色液)を買って、タマネギの皮を一緒に観察してみる。そんな風にして好奇心を持ち、それを満たし、育むというサイクルを作りたいと思っている。

知的好奇心を満たす喜びは、きっとすぐには伝わらないだろうし、もしかしたら一生伝わることがないかもしれない。それでも、伝え続けたい。この喜びにいつか気付いてくれる日まで。

感情の言語化を出来るようにする

会社を経営していると(まあそうでなくても)、たくさんのストレスフルな出来事が訪れる。信じられないような不義理や、予想だにしなかった暴挙に出くわすこともある。その度にイライラして眠れなくなったり、ずーっとそのことについて考えてしまったりする。

基本的にこういった出来事は起こってしまったあとからはどうにでも出来ないことばかり。もちろん次に同じことをやらかさないように、あの手この手を考えて対策をこうじたりはするけども、目の前の事態はもはや後の祭り状態である。だから、単に感情的なもやもやだけが残って、それをぶつける相手もいなければ、発散することも出来ずにいたりする。

こういうとき、自分が何に悩んでいて、何にムカついていて、何が不満で、どうして不安に思っているのか、それらが全て正確に捉えられると、かなり自分の心のバランスを取ることが出来る。それが整理できていて言語化が出来れば、冷静に相手に伝えることも出来る。

たぶんもやもやしたときに一番つらいのは「何でこんなにイヤな気持ちなのかわからない」という状態だと思う。おおくの人は「あいつが〜なことをしたからムカつく」ってくらいの解像度でものごとを捉えたりするけど、「自分がとってしまった行動の後悔が20%、あいつのあの言葉が許せないが40%、次同じことが起きる可能性への不安が40%」みたいなくらいの解像度で捉えられれば、自分が今どうすべきかにフォーカス出来るようになる。

感情の言語化はぼくの人生の中でも相当有用なものだったので、もっと早く誰かに教えてもらいたかったものの一つだ。

娘には、一緒に家に帰る帰り道とかで、ときおり「今日あった楽しかったこと」「今日あったイヤだったこと、悲しかったこと」を聞くようにしている。単に聞くだけでなく、どうしてそれが楽しいと感じたのか、どうしてそれがつらいと感じたのかをインタラクションして感情を捉える力と言葉の表現力を育てようと試みている。

そしてその成果はというと、毎度「いやだー話たくないー(´・д・`)」と言われている。ぐぬぬ、親の思いも知らないで…!ちきしょう。

怒らない育児

ちょっと時間が来てしまったので今日はここまで。大学の課題が大変なので、そのうち気が向いたら書くかもしれない。

ではまた。


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