感情とその鮮度をアーカイブしたいという欲求
場所や環境を流転しないと幸福度が下がる僕でも、これだけ在宅ワークを続けると慣れるんだ!というのが最近の気づき。
まぁ家にいて普段と違う事をするとあらゆる問いが増える。今日はそんな日常から生まれた最近の問いの話をしたい。
僕たちの世代、いわゆるZ世代は非言語でのコミュニケーションを好み、内に持っている思想や感情を言語化することで、急に無機質なものになってしまうことに嫌悪感を感じているように思う。
それは日ごろから、言葉の余白の中にある変数でコミュニケーションを取っているからだろう。
これは抽象度の高い感情でインプットしたものを抽象度の高いままアウトプットして、それを相手に抽象度は高いがダイレクトに伝われとコミュニケーションを取っているということ。
例えると、「X+Y=5」だよ!ってA君がB君に話す。そしたらB君は「A×B=4」と返事をする会話が僕ら世代の会話なんだろう。
お互いにX,YやA,Bの中の数字が何かは明確には分からないが、なんとなくで1~4ぐらいだよねと相手に伝わって欲しいが細かく理解されなくてもいいという会話。
2進数のコミュニケーションが、アルファベットに変わり、今はブラックボックスを感覚で投げ合っている感じ。
そんな僕たちは、衝撃的に感動したモノや現象をその時の感動鮮度でアーカイブすることができない。
どうしても経年劣化してしまう。
ここでいう劣化とは、具体的に言語化できてしまうということ。
どうしたらその感動をその時の鮮度のままアーカイブできるのかというのが最近の問い。
ただ同時に「それをいつまでもアーカイブしておきたい」という欲求は邪念なのかという問いが出てきた。
桜は散るから美しいというように、感情とは経年劣化するからこそ、その時の鮮度の価値が感じられるのかもしれない。
それを他者に、その鮮度のまま伝えられることは限りなく0に近いし、それは望みすぎているのかもしれない。
なので、共感とは最上級の贅沢だと思う。
その共感が出来る集合体(チームやコミュニティ)とは、その存在自体に価値があり、その価値を言語にするとエモーショナルエクイティなのかなと思う。
そんなことを家で一人永遠と考えていた今日この頃…。