賞賛から生まれる副作用 ~社会的圧力とどうやって向き合うか
誰からも賞賛される物事がある。仕事、料理、人と円滑に喋れること、運動していること、夢に向かって努力していることなど。それらを自分が持っていると「すごくえらいこと」に当てはめられて、他から賞賛されるようになっている。
たとえば、楽しく働くことは誰からも賞賛される。「やりがいを持って働くのはすばらしい」「自分らしい働き方を」という言葉は大量に流れている。
しかし、この賞賛される物事にあてはまらない人は、否定されているような感覚になる。楽しく働けていない人、働くことが困難な人。自分は賞賛される生き方ではないのだと。自分は不適合なのだと。なので、この圧力を受けないようにできるだけ普通になろうとする。賞賛の副作用としてこれらが生まれる。
この否定されている感覚、居心地の悪い感覚を取り除くのは難しい。どんな集団単位でも、マジョリティからの無意識の抑圧を受ける側の人々がいる。
そこに優劣はないはずなのに、優劣があるかのように社会に浸透している。そういう物事はたくさんあるだろう。
社会的圧力や、社会的マイノリティに関心があって、世の中に存在する価値観に当てはまらないときにどう対処するか、ということをよく考える。
先日も「母親になって後悔してる」という本を読んで、同じことを考えていた。「母親になることは素晴らしい」「子供を持つことは素晴らしい」という圧力にさらされて母になり、「母親になったのだからしっかりしなさい」「育児がうまくできない母親はダメ」というレッテルを次々に貼られるおそろしさ。
こんな記事もある。マジョリティの特権を可視化する ~差別を自分ごととしてとらえるために~
特権を持っている側がそれに気づいて、動かなければならないということ。「自分の特権に気づく」ということから始めたいと思う。
そしてなにかを賞賛するときは、社会的圧力に加担していないか、ということを自身で問い続けたい。
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