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【疑惑 #10】


「今…どこなの?」


****************

その日は、とても寒い朝でした。


私は、日帰りの東京出張のため、
早朝の新幹線に乗るべく…

自宅から最寄りのJRの駅に急いでいました。


早朝だったので、
路線バスもまだ運行されておらず…

いつものとおり、
自転車を駅まで走らせました。


普段は、バスに乗らず…
自転車で駅まで通勤。

その日は早朝だったので…
自転車で行くことは、
もちろん…妻も知っていました。


この自転車が…
後に疑惑のもととなるとは…
誰が予想したでしょうか。


出張については、
前の日の晩に、
妻にちゃんと説明していました。


そう…
夜9時の…
最終の新幹線で帰ることを。


だから…
自宅に着くのは…
深夜12時を過ぎることになる。


いつもなら…
そう告げていれば、
私がいつ帰ろうと…
彼女は先に、
床についているはずでした。

私は、
帰宅して…
そっと家に入って、
そっと寝るはずでした。

しかし…
その日は、違っていました。

午後6時…
私は既に…大阪にいました。

もう…
東京から戻っていました。

そして、
ある人と一緒に…いました。

飲み屋での楽しい時間は、
あっという間に過ぎていき…

気がつけば…
新幹線に乗る予定だった9時をとうに過ぎ…
時計の針は…
夜の12時を回ろうとしていました。


私は…
どうせ妻はもう寝ているだろうと…
そう思っていました。


その人と、
次の店に入って…
乾杯しようとした瞬間…


携帯電話が鳴りました…
妻からでした。


(今すぐ帰ったら何時になるだろう…)
(電車なら何時に家につく?電車はまだあるの?)
(タクシーなら…)


頭の中で…
時計の針がグルグル回っていました。



パニック…


鳴り続ける電話に…
しばらく出ることができませんでした。

「…もしもし…」

「…ねえ…今、新幹線?」

「いや…もう大阪に入ってるよ。」


歯切れの悪い会話が続きました。


「今…どこなの?」

「…えっ…新大阪かな…もうすぐ」

「そうなの…」

「だから。あと30分くらいで…家に着くから。」

「…ふ~ん…分かった。」

「…ごめんなぁ…」

(ガチャ! プーップーッ…)


私の頭の中は、
時間の数字でぐちゃぐちゃ…

だから…
30分なんて言ってしまった…

そこの飲み屋から家までは…
普通で帰って、
電車で帰って、
1時間は十分かかります。


私は…
自分で言った30分という時間に。
賭けました。

慌ててタクシーを拾い…
家に走らせました。


タクシーは…さすがに早い!
“約束”どおりの30分で帰宅…

約7000円かかりましたが、
…無駄な金だとは全く。


間に合ったこと…
それで十分でした。

約束が果たせたこと…
そのことに満足していました。

自己満足ですが…


「やれやれ。」

自宅のドアを開けると…
ホッとしたのもつかの間…


妻がまだ起きていました。


待っていました。


「…お帰り…」
「…ただいま…」


(沈黙)


「ねえ、電話かけたとき本当に電車に乗ってたの?」

「えっ?乗ってたよ…」


沈黙が続きました。


彼女は…
私の言動をじっと見ていました。


不安そうな目で…
じっと…。

「…おやすみ。」

そう素っ気なく言って…
彼女は寝室に消えていきました。

私は…
やっと落ち着きを取り戻し…
風呂につかっていました。


「あ…明日は自転車がないから…バスか。」


そう…
タクシーで自宅まで帰ってきていたので、
自転車は駅の駐輪場にとめたままだったことを思い出しました。

しかし、
そんなことなど全く気にすることもなく…
風呂につかりながら…
楽しかった時間の余韻に浸っていました。


妻が…
私の財布にあった…
タクシーのレシートを手にしているのも知らず…

二人に、
悲劇の影が近づいているとは知る由もなく…


(つづく)

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