掃除がしやすくて、綺麗が持続する家に住みたい。
高床式建築の後に、その流れから伊勢神宮などの神社建築が発祥したと説明する本と、寺院建築の輸入が先で、技術を習得した社会があえて仏教的要素を排除して神社建築を作ったのではと疑問をていする本がある。
伊勢神宮に行った時の嘘のような気配の無さ、高野山に行った時の笑えるほど欲望まみれの気配ダダ漏れ、あの感覚はいったいなんだったのかなあ。
法隆寺とか平等院鳳凰堂はセクシーだし、掃除はいいよー(清浄を尊ぶ)って気持ちもいいよね。
古事記の上巻には『国生み、国作り、国譲り、国治め』のことが書いてある。
国生み
イザナギ、イザナミ
国作り
大国主神、出雲の神々、スクナビコナ
国譲り(顕幽分離)
天孫、アメノオシホミミノミコト、アメノホヒノミコト、アメノワカヒコ、鳴女、タケミカヅチ、スメミマノミコト
国治め
いま
仏教建築はプライベートで、神社建築はパブリックな感じもする。掃除と挨拶しないと、人は死んじゃうからな。その原理に敏感だといつのまにか社会で機能できるってことなのかもな。古事記の国譲りにはそんな感覚があるのかもしれない。
なるべく、機能をもって外にでて、挨拶して、率先して場を綺麗にしたい。それが治めるってことにつながるのかもしれないし。
建築と住むってことを考えてると、『どんな家に住みたいか』よりも『どんな家程度だったら住めるレベルなのか』を気にする社会になっているなと気づく。
私は掃除がしやすくて、綺麗が持続しやすい家に住みたい。