弱さは強さの欠如ではない。
メイヤスーは相関主義を「我々は思考と存在の相関物にしかアクセスできず、片方を抜きにしてはそのどちらにもアクセスできないという考え」と定義し、それを乗り越えようとした。
なぜ乗り越えるのかというと、強さがないと生きていけない状態になることは、そうできなかった時に悪い意味での虚無に陥ってしまうことを憂いたのではないだろうか。すべての人、すべての状態の時にニーチェ的な超人になれるわけではないから。
メイヤスーは状態ではなくて、思弁(考えてたどり着く)によって実在に辿り着こうとした。それが思弁的実在論で、偶然性の必然性を感じることがその基礎にある。
偶然性の必然性とは「人間の認識の範囲外ではどのようなことでも起こる可能性がある(=偶然性)、という命題は人間の存在の有無に関わらず成り立つ(=必然性)」ということ。
メイヤスーは思弁的実在により相関主義的な哲学から脱却して、数理自然科学の客観性の基礎づけることと、救われなかった魂を救済することを導こうとした。
松岡正剛は著書「フラジャイル 弱さからの出発」の中で「弱さは強さの欠如ではない。弱さというそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである」と語り、「英雄、赤ちゃん、ゲイ、宝塚、建築、茶器、神経、宗教、哲学、編集」に関しての意味を問い直している。メイヤスーの思弁的な実在と指向性が似ていると感じる。
また、それはアクターネットワーク理論(ANT)にも通じる。組織分析、情報学、健康研究、地理学、フェミニズム、経済学、哲学、建築学、アートなどでもANTは参照されている。アクターネットワーク理論は、社会的、自然的世界のあらゆるもの(アクター)を、絶えず変化する作用(エージェンシー)のネットワークの結節点として説明され、アクターを外部から拘束する「社会的なもの」(社会的な力)が措定されることはないことがポイントだ。
メイヤスーの考えは、受け手になることから生命を始めることで、存在を脅かされなくなるという新しい生存戦略であり、静かな世界変化を語っているのではないだろうか。
問題は神もニーチェも死んでいなくて、人類は迷っているということだろう。だからこそ脆くはかないものにこそ惹かれる。強さだけではなく、弱さの視点には自分の存在が担保できる可能性がある。
そこには名前も何もなくて、弱さと繋がりと少しの希望がある。だから、「手に持った石を離した次の瞬間に自然法則が書き変わり、石が明後日の方向へ飛んでいった」だとか、「今は神は世界に存在しないが、やがて将来、神が出現して報われなかった魂を救済してくれる」だとかの、なんでもありの偶然性(ハイパーカオス)がやってきたとしても、透明な存在はそれをすり抜けてチャンスを伺えるのである。それは思弁を司る前頭葉がなければできない技かもしれない。