これからの学術雑誌の役割
アカデミアの中でおそらく分野問わず行われているのが論文の執筆・投稿・掲載だと思われる。どれだけ頭の中ですごいことを考えていても、それを形にしなければ伝わらず後世には残らないし、実際研究をしているのかどうかというのもどれだけ論文を出しているかで判断されることが多い。
じゃあ手当たり次第出しまくればいいのかというとそうではなくて、量だけではなく質も(というか質が)大事だ。最近日本の論文執筆数が落ちているのはどこの記事でもよく見るし客観的な数字の話だからおそらく真実だが、一般的には質も落ちていると言われている(というかもう何もかもが落ちているような報告さえある)。実際、大学院生やポスドクと言った一番手を動かして研究している人たちの声を聞けば、とてもまともに研究できるような環境ではないことはわかるだろう。例えばこの調査まとめなど(何だか読んでて心苦しくなる)。
じゃあ質と言うけど質ってなんなんだ、質ってどう判断したらいいんだと言うことを最近考えていた。高校までで教えられているような一見普遍的な真実みたいなことさえ絶えず疑っているのがまさに研究なわけで、最先端にいればいるほど本当に正しいのかどうか極論誰にもわからない(特に過去の知見から乖離した新しい発見であればあるほど余計に理解が得られにくい)。
とはいえそのような世紀の大発見みたいなことは滅多に起こらないし、大体は専門家が見れば質の良し悪しが分かるので、一般的に質の高い論文というのは査読というのがついている。査読は学術雑誌に投稿された論文を他の研究者が批判的に読み、先行研究や方法論、分析法、結果の解釈などに問題がないか念入りにチェックするシステムであり、必要であれば投稿者は修正を重ね、査読する側がある程度納得する形になったところで雑誌に掲載される(か、もしくは不掲載となる)。
一方で査読がないものもあって、専門家が読むものだと大学の紀要論文集は査読がないか緩いところが多かったり、一般向けだと雑誌や新聞のコラムも査読がない(編集者の目は通っていると思うが、専門家は読んでいないと思う。そもそも専門誌とは目的が違うのでいらない)。専門家が読むと想定された論文で査読がない場合は、外部の審査を受けていないため質が低い(可能性が高い)と思われがちである(とは言えこのような査読なしの場所の役割はそれはそれである)。
査読ありの雑誌の中でも分野によってあるいは雑誌の種類によって審査が厳しかったり多少緩かったりするものがあり、特に最近はオープンアクセスジャーナルの流れもあって、査読のコストを減らした論文採択率の高い雑誌も出現してきている。その場合は査読はついているけど伝統的な雑誌と比べると質が低いと思われていると思う。なので専門家しか通じない話だがPLOS ONEに載っても同僚は特に驚きもしないだろうが、有名なNatureやScienceに載ったとなるといきなり一目置かれるはずである。
権威があるというのはそれなりに長い伝統や実績があるので、過去の多くの偉大な研究はNatureやScienceみたいな雑誌に掲載されてきたと思うが、もちろんNatureやScienceに掲載されたからと言って全てが正しくて質の高い研究というわけでない(日本でもSTAP細胞の話があったが、あれも一度はNatureに掲載されたわけである)。とはいえ聞いたことのない学術雑誌と比べるとはるかに質の高い論文が掲載されているのが権威のある学術雑誌だと思う。
質の良さを権威で保証しようとするのは発想的には頂けないが、インターネット以前の世界だとしょうがない部分も多かったように思う。今でこそ学術雑誌も電子化され、私の分野だとほぼ全ての論文がワンクリックで手に入るのだが、インターネットが普及する前の学術雑誌といえばもちろん物理媒体の雑誌であり、雑誌が印刷されて各研究室に支給されるという仕組みだったと想像する。詳しい流通はよくわからないのだが、物理学者の朝永振一郎のエッセイなどを読んでいると雑誌が届くとみんなで囲んで読んだというような記述もあった気がするので、研究者の間でも同じものを見ていたような環境だったのではないかと思う。当然世界中全ての学術雑誌を購読するのは物理的に不可能だし金銭的にはさらに厳しいはずなので、そうなるとどうしても最先端の質の良い論文を手に入れるには権威のあるところを外さないというのがまぁ間違いがないように思う。
しかし今はもうこれだけインターネットが普及して、論文を手に入れる物理的・金銭的コストも下がった(金銭的には研究者側と出版社側のややこしい話があるがとりあえず置いておく)。となると正直どの程度権威を信用したら良いのかということについて疑問を持ち始めた。なぜならこれだけ簡単に論文が手に入る時代に、権威に頼らなくてもたくさんの人の目にさらされることによって、良いものは自然と残るし悪いものは自然と消えるのではと思うからである。もちろんまず読まれなければ話にならないので、無名な雑誌に載ったところで誰にも読まれない可能性がないとはいい切れないが、しかし昔のような物理媒体の雑誌と比べるとはるかに読まれる確率は高くなっていると思う。なんなら自分のHPに載せるだけでも一般に公開されるし、Twitterなどのソーシャルメディアなどで影響力があればすぐに拡散されるかもしれない。
とは言っても世界を視野に入れて就職を探し始めると、特に北米なんかはいわゆる質の高い論文が評価されるしまた本数も評価の対象になる(まぁヨーロッパも日本も同じであるが、なんとなくヨーロッパはそこまでな印象がある)。就職だけでなくて研究費の獲得についても同様である。権威がある学術雑誌というのはNatureやScienceだけに関わらず、各分野それぞれに色んな種類があるので、できればそういうところに自分の業績がある方が他者からの評価が得られやすい。
学術雑誌が論文及び研究者の質の高さを保証するという役割はすぐに消えたりしないと思うが、しかしいずれはそういう時代が終わるのかと思ったりする。厳しい査読によって質を保証する一方で、査読のせいで論文が掲載されるまで数ヶ月や長くて数年かかることもザラなので、そんなことやってる間にもう情報も古くなってしまうというのは特にコンピュータサイエンスなどの分野ではありそうである。
しかしながら業績が欲しい若手を狙ってまともに査読せずに質の低い論文を生み出す捕食出版もあるので、無名の雑誌はそういう危険性も考えなければいけない。ただ昔ほど権威のある出版社の力というのが弱まってきている(さらに弱まるのではないか)と思っているわけである。
最近の買い物事情も似ていて、昔はお店に行かないと物が買えなかった。もちろん世界中の物全てを取り扱っている店などないので、質の高いものを手に入れようと思ったら、自分の信用しているお店に行って、そのお店の選択を信用して買い物をしていたと思う。それが今や例えばアマゾンのようなオンラインプラットホームの、一個人では当然分かり得ないような膨大なレビューや統計情報を基にして質の良いものが簡単にわかるような構造になっている。情報も常にアップデートされるから昔は良くても今悪くなっていたらすぐにデータとして反映されるし、そこに専門性の高い個人が介在しなくても良くなったわけである。
じゃあもう個人商店はいらないのかというとそうではなくて、私はやっぱり人間のヒューリスティックというか、機械学習や統計情報などでは得られないような何か直感のような物があると信じたいので、気に入ったお店には足繁く通いたいし支援したいと思う。個人商店の強みはマスとは違う、数値的な情報からは生み出せない何か新しい価値観みたいなものを提供できるところだと思っている。
学術情報も質の保証の仕方が権威の他にもあるとするのであれば、きっと新たな可能性があるのだろうが、基本的に学術論文の質が高いというのは、基礎研究に近ければ近いほど「より確からしい」「より真実に近そう」という一本に絞られている気がするので、先ほどあげた個人商店のように異なった質を模索する余地があるのかはわからない。特に答えも見つかっていないだがなんとなくこんなことを考えていたクリスマス辺りであった(なんと悲しい)。