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現実世界は自分が作っている幻想か?

イーロンマスク氏が「世界はコンピューターゲーム上で再現されている仮想現実のようなもの」と言われていたように、
今自分が見えている世界というのは、本当に人それぞれ全く違って解釈しているのだなと感じたエピソードです。

私のメンター兼コーチがアメリカに留学されていた時のエピソードなのですが、ある時授業に遅刻しそうになって急いで教室に向かっていたら、アメリカ人の同級生が悠長にコーヒーを飲んでいるのを見かけたので、「もう授業始まるよ」と声をかけたそうです。

そしたらその同級生は、「うん、知ってるよ」と。
「知ってるけど、私は今コーヒーが飲みたいから、飲み終わったらいくね」と、返ってきたそうです。

これが日本の授業だったら、きっと遅刻して教室に入った途端クラスメイトの全注目を浴び、先生から小言を言われ、もしかしたらそのまま教室の後ろに立たされていたような時代もあったかもしれない。

遅刻した本人は、きっと急いで授業に間に合わせるよりも、いったん一息ついて落ち着いてから授業を受けた方が能率があがると判断したからそうしているだけ。
遅刻して損するのは本人だし、よく考えてみれば先生も怒る必要なんて全くない。

遅刻はダメと教わってきた世代の私には、自分の判断で自分の行動に責任を持って生きているそのクラスメイトも、そしてその子が遅れて教室に入ってきても何も言わない先生どちらにも、はっとさせられました。

もう一つのエピソードは、クラスの最後に先生が質問ないですか?と生徒全体に投げかけた時、一人の生徒が手を上げて
「xxxというところを聞いていなかったので、もう一度教えてください」と言ったそうです。

自分が聞いていなかったという身勝手な理由で、みんなの時間を割いてまで質問する、というのは日本人の感覚ではなかなか勇気のいることじゃないでしょうか。

でも、そのクラスメイト曰く、
「自分が質問することによって、自分と同じように聞き逃していた人のためになるし、ちゃんと内容を聞いていた人でも、もう一度同じ内容を聞くことによって復習になって理解が深まったり、新たな発見があるかもしれない。
だとしたら、その人たちのためになることをした自分は偉い!」
と自信満々に言い放ったそうです。

これが日本だったらどうでしょうか?
授業中の質問時間はしーん・・でも授業が終わったあとにずらーっと先生の前に列ができる・・
これって考えようによっては先生にとっては迷惑な話かもしれないわけですから、そのアメリカのクラスメイトの考え方も間違いとはいえないですね。

この二つのエピソードが教えてくれることは、いかに私たちが自分の価値観や文化圏の常識という色眼鏡をかけて世界を認識しているか、ということだと思います。

そして、もともと私が英語に憧れた理由も、こういう決定的な価値観の違いに非常に衝撃を受けた影響が大きかったということを思い出します。

私が生まれ育った京都は日本の中でも比較的閉鎖的な文化圏なので、親からは人と違うことは恥ずかしいこと、人に迷惑をかけるな、自分を制しても和を大事にしなさい、ということを教育されてきました。
なので常に人の様子を伺うという他人軸の考え方が染みついていて、でも、なにかが違うという居心地の悪さを感じていました。

でも、例に挙げたような英語圏の人たちの言動を見聞きするうちに、そんな考え方ってありなの!?と、天変地異が起こったような衝撃と感銘を受けた時、私が身を寄せるべきはここだ!と、ちょっと安心したような気持ちになったのも覚えています。

それからというもの、英語を勉強することは、息苦しい場所から、私が楽になれる世界で生きられるように生命線を紡ぐための作業だったような気がします。

一見苦しいと思う現実も、自分が全て作っていた世界に過ぎないと思うと、ふっと肩の荷がおりるし、冒頭のイーロンマスク氏の言葉のように、世界は全て自分の仮想現実だと考えれば、途端に楽しくなってくるような気がします。

やはり、人生ユーモアが一番大切ですね。


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