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雪が降らない街

 街の流れが冷たく頬に触れる季節。私はいつも通り職場のデスクに向かっていた。
「昨日あったことは全てが嘘だった」
 スリーコールの電話の音、キーボードを叩く音、革靴が底を叩く音、全てがそう言い聞かせるようにこちらを見つめていた。パソコンに映る文字が段々と滲む。嘘であってほしいと同時に嘘になんてされたくなかった。

 私は思わず席を立ち、会社を飛び出していた。見つめられていたはずが誰にも気づかれないで済んだ。鞄を忘れてきてしまったがそんなことどうでも良かった。靴の底に隠した千円札で1番遠いところまで行ける切符を買った。映画の主人公がやるとあんなにかっこよく見えたはずなのに、私がやるとこんなにも惨めったらしくなってしまうのはどうしてだろうか。そんな事実に思わず口元が緩む。
この時間の電車は空いていて、席に座ることができた。この時間の電車の中は私が知っている風景とは違っていた。大きなリュックを背負った外国人が大きな声で談笑を交わしている。赤いキャップを被ったお爺さんの履くサンダルは両足で違う物を履いている。パーカーを着た若い女の子の顔はとても艶ややかで唇は芳醇な赤色で輝いていた。一つしかないはずのこの空間はまるでいくつかの隔てられた空間であるかのようだ。そんな空間がたまらなく心地良いと感じている私がいると同時に、誰からも見えていないかのようで寂しくなった。
 ポケットから出したスマートフォンにはおびただしいほどのLINEと会社からの着信が入っていた。

8:31   不在着信  会社
8:34   不在着信  会社
8:42   不在着信  会社
8:45   不在着信  会社
8:47   不在着信  会社
8:56   不在着信  会社
9:01   不在着信  会社
9:07   不在着信  会社

……

「なんだ。やっぱりみんな私こと見てたんじゃんか」私は子供の様な拗ねた顔をし、明日までは無視しておくことに決めた。なんだか表示されている時間がおかしい。なんでこんな時に限って、、。壊れてしまったスマホの電源はもう落としておくことにした。
 「はあ」
 一つついたため息が電車の音と混ざって耳の奥で溶けていく。私は数日前に別れた彼氏のことを思い出していた。一つ下の彼とは大学生の頃に知り合った。サークルの友達に連れられていった居酒屋で彼がいたグループがナンパしてきたことが全ての始まりだった。オレンジ色のランプが彼の長い睫毛を透かしてその下の綺麗な瞳を優しく照らしていた。その彼の目を見ていると大きな草原の真ん中にある大きな木の木漏れ日の下で穏やかな時間を過ごしている様なそんな暖かなさを感じた。そんな目をしていた。冬になると雪が積もり、辺り一面が真っ白何もない世界になっていく町の冷たさと、ビルが立つ街の流れ行く人々が作り出す風は同じくらいに冷たかったのだ。
 そんな彼がホストだと知ったのは付き合ってから2ヶ月後のことであった。
 数日前、彼は私の家を出てから連絡が取れなくなった。彼の服や彼の使っていた道具はそのままで、何かを持ち出した形跡もない。私は彼のことが心配で何度も何度も電話をかけたが彼の声が聞こえることはなかった。彼のアカウントのアイコンに映った彼の優しい目がただ私を見つめているだけだった。そんな事思い出したくもなかった。
 彼のケータイも不在着信の山に埋もれて壊れていて欲しいなあ。なんてことを思っていると電車が止まり聞き馴染みのある文字の羅列に私の体は反応して電車を降りていた。改札を通った後に私はお金を無駄にしてしまったことに気がついて、後ろを振り返ったがもう遅かった。
 私は仕方なく、自分の家の方向へと歩き出す。家へと向かう途中、いつも寄るコンビニのネパール人のドゥタくんはこの時間にはいないみたい。熱々のコロッケを売る気のいいおっちゃんもこの時間に私がここに来るということを予想していなかったのか今日は話しかけてこなかった。毎朝、挨拶を交わしていた近所のおばさんは最近見ないと思っていたが、公園のベンチで口を開けたまま空を見つめていた。私は自分の住む街に帰ってきたはずなのだが、いつも見ている景色とは違う街に私はここにいてはいけない気がして、走って家へと戻った。
 家に着くと玄関の鍵は空いていた。会社にある鞄に鍵を入れたままにしていたので、一瞬絶望しかけたのだが、今だけはこんな自分に感謝していた。机の上には昨日飲んでいたお酒の缶がいくつも転がっていて、私は昨日こんなに飲んだのかと考えるだけで気持ち悪くなった。カーテンの向こうに洗濯物が干されたままで、雪が降っていることに、服が濡れていることに初めて気がついた。
 とにかく眠ろう。明日はみんなに謝らなきゃ。黄ばんでしまっているシロクマのぬいぐるみを持って私は浴室へと向かった。出しっぱなしになっているシャワーを止めて、そこに横たわる影に沿うように私も横になった。お気に入りのシロクマも一緒だからもう寂しくない。
 ぬいぐるみは寒くないように強く、強く私の影を抱きしめた。 


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