乃木坂46が『Monopoly First Live』を披露したときにやさしさの拒絶であると考察したことは、あながち間違いではなかったのかもしれない。
しかし、誤謬があったとすれば、『Monopoly』のMVが公開されたあとに分析した林檎とは一体何であるか?のなかで”賀喜遥香は林檎を齧る”と書いたが、あれは林檎ではないらしい。
林檎でなければ何なのか?
そのことについて賀喜遥香がラジオで話していた。
林檎に似たプラムを齧らせることは、歯痛のせいではないはずだ。池田一真があえて言うことは、やはり「やさしさを愛だと勘違い」してしまう遠藤さくらのために、賀喜遥香はふたたび林檎を与えなければいけないからだろう。
いま一度思い返したいのは『Monopoly First Live』が改装工事中のSHIBUYA TSUTAYAで披露されたことである。
ひとまず2023年の乃木坂46が『人は夢を二度見る』からはじまる再出発の物語であり、開発し直すという復興の思考が反映しているような街を舞台にしたことは意味を持つのかもしれない。
しかし、こう続ける。
蓮實重彦が渋谷の再開発にみた予期と池田一真の描いた『Monopoly』のフィロソフィーは、世界の崩壊をもって呼応する。だから再出発をしようとする乃木坂46というセカイも崩壊の一途をたどることを告げられているように思えてしまう。
2024年を迎えた乃木坂46が元日に出演したCDTVのなかで『Monopoly』を披露した。いつもは曲終わりに賀喜遥香から遠藤さくらの手を繋ぐはずが、遠藤さくらから賀喜遥香の手を繋いだ。
これはまさしく「僕は謝ることより先に手と手を繋いだ」という精神的続編にも思える『君に叱られた』のような結末。崩壊しようとするセカイで握りしめ合う手。愛にできることはまだある!!!!
そのまま手から離れないうちに掬いあげること。