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「SKYWALKER」企画提案用 設定メモ

2017/01

本稿は、別稿「初期企画案」を、某アニメ会社のオーダーにより、「女の子を主人公とした学園物」に仕立て直した際のメモです。
詳細は「初期企画案」を参照。

某社とは2014年から2年余り企画開発を進めていたものの、2016年秋に凍結。現在、権利関係は完全にクリアーになっております。

メディアミックス展開を目指した名残りとして、「小説家になろう」で、かすがまる氏執筆によるノベライズ「SKYWALKER」連載中。


【タイトル】

「スカイウォーカー」
(空に棲むゾンビの意。本編の敵役の仇名をメインタイトルとする)

【形式】

シリーズ展開を想定。

【ジャンル】

ゾンビが一体も出てこないゾンビ物
超人ヒーロー物

【コンセプト】

「不老不死」「聖杯」「ゾンビ」の三題噺。

聖体拝領によって得られるという不死の命が、バイオテクノロジーによるゾンビのごときものとして実現した近未来を描く。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」(ヨハネによる福音書 6:53-56)

ゾンビ物は数あれど、血と肉の摂取による不死感染に、この言葉を結びつけた前例はない(と思われる)。
「アイディアとは既存のものの新しい組み合わせ以外の何ものでもない」という言葉があるが、この新規の組み合わせによって、「他に類例のないオリジナル作品を」というオーダーに応えたい。

聖体の血を飲み、肉を食べることによる、不老不死の感染、これを真の聖体拝領と称し、これこそが死からの救いであるとして、すべての人々に分け与えようという不死人種たちが、今回の敵役である。

ワインとパンを口にする聖体拝領を、無意味なままごとであると断じたとき、世界の半分を怒らせることになる。

不死者VS人間の対立軸は、ありがちだと言えるが、こうしたアプローチで迫った前例はない(と思われる)。
この新機軸を使って、まだ誰も見たことがない、既存のどれにも似ていない、目の覚めるような新鮮なオリジナル活劇を一本立ち上げようというのが、今回の企画提案である。

【テーマについて】

人間の不老不死化の是非を問う。
不死者が大量発生した時代に巻き起こる、世界を二分する分断と衝突を描く。

ゾンビや吸血鬼が、次世代の新人類であったという結末、死を克服した人類であったとする、どんでん返しで終わる物語は、藤子不二雄Fの短編「流血鬼」や平井和正の「デスハンター」、「地球最後の男」(チャールトン・ヘストンのオメガマンやウィル・スミスのアイアムレジェンドの原作)などがあるが、本編はこのどんでん返しの結末からスタートする。

【ターゲット】

本編の「搾取される主人公像」に重なる世代、「若肉老食」の渦中にある若者や子供たちをメインターゲットとする。
(「若肉老食」という、最近の造語がある。老人に食い物にされる若年層を意味する。団塊世代が下の世代を食いつぶしていくのだという)

【主な内容】

聖体拝領において消費される血と肉、「聖杯」と称される生贄として、ブロイラーのように量産される少年少女たちの抵抗と逃避行、彷徨と冒険を描く。

不死者たちは「聖杯」を摂取することによって命を得て、生き長らえる。
「聖杯」の血と肉を口にしなければ、不死の命はない、それ故に「聖杯」は我々の命を救う「救い主」であるのだと、不死者たちは言う。

「私はいのちのパンである。このパンを食べる人はだれでも永遠に生きる。このパンは人類の救いのために捧げる私の体である」
二千年前の、この謎めいた言葉は、彼ら不死者にとっては象徴ではなく字義通りの現実そのものであった。

ワインとパンではなく、血と肉そのものを口にすることによる 「不死化ウイルスの経口感染」、これを儀式化したものが、彼らの聖餐式であった。 最後の晩餐を由来とする聖体拝領の儀式が、彼らにあっては「血の晩餐」と化していた。 吸血鬼のように。

「聖杯」は、意思持たぬ植物人間として産み落とされる。
ゾンビの救世主に”魂は不要”だからである。必要なのは聖体とされる血と肉のみ。アンパンマンのように肉体の一部を提供するのみ。
ここに「魂を失った者=ゾンビ」という図式が明確となる。初期ゾンビ映画にあった物質文明批判が、本編において鮮明に姿を現す 。

ジョージ・ロメロのゾンビがショッピングモールに集まるのは、「欲望のままに動く肉体の奴隷である人間存在への暗喩であり、現代人および物質文明への警鐘」ということであるが、その意味で本企画はゾンビジャンルの原点回帰、そのメッセージ性をより鮮明にする試みである。
これを、今描くべき「ゾンビ(魂を失った者)との戦い」とする。

「死ぬのをやめて何が悪い?」と、不死者たちは問いかける。
「不老不死が倫理に反すると誰が言うのか?」
「人間の健康で長生きする自由を侵す権利など誰にもない」
「人の命を救う行為に何の罪科を問うのか?」と。
この「人命こそ至上」とする敵役を相手にして、人々は如何に反駁し、戦うのか。
現代人の大勢を占める価値観と如何に戦うか?

人皆ひとしく死ぬ、この開闢以来のことわりが覆されるとき、人が死ぬ者と死なない者とに分かたれ、人類史最大の分断が行われるとき、この最も激しい「世界を二分する対立構造」を、警鐘として描く。

自我に目覚め、己が魂を取り戻そうとする一人の「聖杯」、不死身の主人公の試練の行末をカメラは追う。(これで超人ヒーロー物としての体裁をとる)

「生ける聖杯」と呼ばれる、不死化ウイルスの発生源たる主人公は、全人類を死する運命から救うヒーローか?あるいは全人類をゾンビ化する悪魔の子か?

【イントロダクション】

「不死に至る病」の世界的な感染爆発と、それによる不死人種の人口爆発によって巻き起こった、混乱と戦災の「ゾンビ禍」より百年余り。

兄の仇であるスカイウォーカー(空に棲むゾンビ)を討つべく、新十字軍に身を投じた少女エティエンヌ。
彼女の初任務は、フランスのとあるミッション系の女子学園に教育実習生として潜入し、生徒マリアを看視、護衛せよというものであった。

マリアは妊娠していた。あらぬ噂が飛び交うなか、真相を知るのは受胎告知を目撃したエティエンヌのみ。
翼の生えたスカイウォーカーが降り立ち、さながら受胎告知を告げる天使のようにマリアに処女懐胎を告げたのだ。
胎内に息づくその子こそ、人々を救う、不死の命の糧であると。

その背後には、「聖母協定」なる密約があった。
それは、処女を生贄に捧ぐ因襲にも似た、生者と不死者のあいだに交わされた秘密協定であった。
マリアへの同情と、新十字軍への忠誠の板挟みに苦しむエティエンヌ。

マリアの血を狙う不死臓器売買マフィアや、学園に潜むスカイウォーカーとランドウォーカーの暗闘、さらに同級生たちの平穏な日常との軋轢がこれに絡む。

罪なきマリアの受難。マリアを巡る謀略が彼女を火刑台へと誘うとき、エティエンヌは決断する。

【主な登場人物】

・マリア
ミッション系女子学園の一生徒。
空の不死者による、突然の受胎告知に困惑する。
彼女はまさに聖母マリアのごとく、ゾンビの主「生ける聖杯」を処女懐胎させられていた。さらに、母子感染によって彼女自身も不死化してしまう。
自暴自棄な振舞いは、実の母に売られた悲しみから。一方、母の想いは正真正銘、娘マリアのため。死によって損なわれない、娘の永遠の幸福を願う親心から。
世界を二分する対立の構図が、亀裂となって母と娘を引き裂いていた。

・エティエンヌ
マリアの護衛と監視の任を受けた新十字軍の女騎士。
本名はセシルだが、亡き兄の名であるエティエンヌを名乗る。
兄の仇であるゾンビ、スカイウォーカーを狩るために新十字軍入りしたはずが、妊婦のお守りを任されて鬱屈している。
マリアに宿された「生ける聖杯」を巡っての暗闘に巻き込まれ殉死するが、マリア自身の聖体拝領によって死の淵から生還する。憎むべきゾンビの体となって。
これは果たして、死からの救済か、不死の呪いか?
エティエンヌの葛藤はやがて、スカイウォーカーと化した兄との再会によってクライマックスを迎える。

その他詳しくは「スカイウォーカーの組織・人物について」を参照。

【聖母協定】

不死性とのトレードオフとして、不死者には生殖能力がない。 女が子を産めない石女(うまずめ)になってしまう。
(人口爆発を懸念した百年前の不死ウイルス設計者がそのようにセッティングした)
不死者の存続には聖体拝領が必要であり、聖体を産み落とすには母胎が要る。
そこで、地上の女が必要となる。聖体を産む代理母として使用するために。

聖母協定——それは、地上の人々が代理母を提供する見返りとして、不死者は地上には降りてこない、不死の侵略を行わないとする密約であった。

代々、選ばれた代理母は、まさしく処女懐胎によって不死者の救世主を受胎し、不死者たちの聖母と呼ばれることになる。
ひとりの無垢の少女のもとに、翼持つ者が降りて祝福を告げる様は、受胎告知のパロディの如く。

【スカイウォーカー】

文字通り、空に棲むゾンビと渾名される不死人種。本編の主な敵役。
その渾名が示すが如く、「不死の体を与えられ、空に携え挙げられる」という「携挙(Rapture)」の預言の成就した姿こそ、我ら不死の民であると、彼らは言う。

人間との軋轢を避け、天空を巡るリングワールド状の生活空間に隠遁していたが、百年の時を経て今ふたたび、地上に降りて来ようとしていた。

「人間にとって最大の敵が”死”」「死こそ人間にとって、滅ぼすべき最大にして最後の敵」というコリント書の一節、聖パウロの引用を彼らは繰り返す。
「死」こそ人を邪悪に誘う根源だと断定する。「死に至る病」を根絶せよ。人の世から絶望を無くすのだ。

四苦(生老病死の苦しみ)から全人類を解き放ち、老いと死のプロセスを止めるべし。人が生まれてくるのも止めるべきという、反出生主義の権化。

全人類総不老不死化を大義とする不死の超人たちを敵役として、これに抗(あらが)う主人公たちとの葛藤を、物語の主軸とする。

(注。こうした敵役の正当性を担保するため、本編に心霊的存在は登場しない。
さっき死んだ人が霊となってダブラシ(半露出)で現れたりしてはいけない。
夢に出てくるなどの主観的表現はOK。霊としての死後生存を証明する客観的表現はNG。語り口は敵味方中立に。
原則として霊力や魔法は存在せず(存在を証明できず)、その他オーラなど、肉眼に映らないものは本編のカメラには映らない。この現実と同じく。)

【ランドウォーカー】

地上に潜む不死者。
スカイウォーカーのピューリタン的な道徳規範を厭い、または 追放されて、地上に降りてきた者たち。
その正体を隠し、地上の世俗に紛れて生活している、隠れゾンビ。ときに密告によって狩り立てられる、新十字軍のゾンビ狩りの主な対象。

【新十字軍】

全人類ゾンビ化というべき、不死者たちの同化政策に対抗する連合軍の総称。

【地の塩】

ランドウォーカーをひとつにまとめあげようとする地下組織。
聖書中の「地の塩」、つまり、地にあって腐敗しない存在は、我々、地上の不死者を指すのだ、と彼らは言う。
腐敗を防ぐ塩のように、地にあって朽ちない者たちとは、我々ランドウォーカーを指すのだと。
ゾンビというが、腐敗とは無縁の我々ほどゾンビから遠い存在はない。
近い将来、墓の下で腐り果てていく運命から逃れられない人間の最後の姿こそゾンビそのものではないか。
お前達が敵として思い描いているゾンビは、お前達自身の自画像に過ぎない。
お前達が恐れ、憎んでいるのは、逃れられない自身の「死」に過ぎないのだ、と、すべての「死に至る者たち」を挑発する。

【奇跡を演出する敵役〜アピールポイントとして】

聖体の血を飲み、肉を食うことによって不死を得る、現世利益と化した聖体拝領。

この「聖体の秘蹟の物質化」、ひいては「奇跡の陳腐化」をコンセプトとしたとき、必然的に、「陳腐化した奇跡を派手に演出する敵」を本編は演出することになる。

彼ら不死者たちは超人としての示威活動、大掛かりな奇跡を好んで演出する。
血と肉による即物的な聖体拝領を、これぞ「不死の奇跡」として演出する不死者たち。

受胎告知もまた同様に演出され、代理母を動員した処女降誕が再現性をもって繰り返されている世界。
聖母の聖性、一回性が失われて、無数の代理母による、無数の救世主降誕、それによる、不死の命の大判振る舞いが起きている。
不死の奇跡のインフレーション、不死の奇跡の陳腐化が起こっている。こうした世界観を絵で見せる。

再現性ある奇跡はすでに奇跡ではない。そのため、これを聖なるもののように権威づけ、目にモノ見せる必要がある。
天使や悪魔などに扮し、奇跡や神話を演出する不死者たちによって、映像はスペクタクルの連続となる。雲が逆巻き、雷光が走り、地が裂け、海が割れる、アニメでもよく見かける派手な画面に、本作独自の理由づけを与える。

古今東西のエンタテインメントは皆、奇跡を演出して来たと言っていい。大掛かりな手品やサーカスによって驚かせ、観客を喜ばせることがエンタテインメントの本道。本編はその極め付けをやる。

天使や悪魔などの意匠やデザインはアニメでは見慣れたもので、私も何度描いたかわからないが、本編では借り物ではない、コンセプトが要求するものとして表現する。
不死の民が扮するフェイクとして。

すべてはフェイクであり、コスプレであるという開き直りのもと、神話伝説上の怪物、半神半獣や妖精まで、考えつく限りの、この世ならざるものが群れなして登場する、こうしたジャンルの総決算、集大成を目指したい。

ミメーシス(模倣)こそ創作芸術の本質であるという言葉を確かめるかのように、古今東西のあらゆる神話や民話、伝承、絵画、SF小説、映画、ゲームなど、フィクションの中でしか存在しなかったものが、パンドラの箱を開けたように実体となって現れる世界。
それらは実体であるがゆえにフェイクである。それは、肉体的不死を得る即物的な聖体拝領がフェイクであるのと同義である。
それらは模倣であり、魂を失っているがゆえにフェイクである、という逆説。
すべては「聖体拝領の物質化」、ひいては「奇跡の陳腐化」というコンセプトに収斂する。

このように、魔女、天使、悪魔、ゾンビ、ドラゴンやモンスターなど、アニメやハリウッド映画では見慣れた存在の登場に、本企画独自の必然性を与える。
こうしたキワモノがゾロゾロ出てくるお話は、総じて陳腐になりがちなのだが、明確な演出意図として本編ではそれをやる。 陳腐であるほど、本企画のコンセプトは補強される。

【聖杯とは?】

余談ですが、前述の某社によれば企画売り込みの際、「聖杯」というワードに 「Fate(フェイト)?」という反応が返ってきて、二番煎じのイメージを払拭できなかったようです。それが敗因のひとつだったと。

「Fate」は未見なのですが、Wikiなどをのぞくと「Fate」における聖杯は「江戸時代の魔術師が作った願望機」とのことで、つまり、二千年前の聖遺物である聖杯とはあまり関係ないもののようです。

普通に考えても、一般教養から言っても「聖杯」と聞けば、最後の晩餐に使われ、キリストの血を受けた杯であり、あるいはワーグナーやアーサー王伝説を思い浮かべるのが妥当でしょう。
不死の命を求めてヒトラーが探し求めていたとか、最近ではダヴィンチ・ コードもしくはインディジョーンズの三作目に出てきたアレかぐらいが、聖杯のごく一般的な印象、見方であり、世界標準と言えるでしょう。

要するに「永遠の生命を与える杯」というのが、聖杯の一般的な認識です。

若い頃のスカーレット・ヨハンソン主演の映画「アイランド」でも、臓器提供用のクローンに「お前たちは聖杯なのだ」というセリフがありましたが、向こうではそれで通じるのです。

本編における聖杯もまた、映画「アイランド」で語られたような、「もののたとえ」であります。
肉体の不死という現世利益のみをもたらす、神秘性を排した、物質科学による物質的現象である以上、それは聖なるものではない、いわば「聖ならざる聖杯」、聖杯の影のごときニセモノです。
影であるならば、実体を正確に投影しなくてはなりません。本物(言い伝えられてきたもの)に似せてさえないものはニセモノとすら言えないでしょう。

「これはわたしの血である。わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」として、のちに聖杯と伝えられる杯に葡萄酒を注ぎ、弟子たちに分け与えたという、そんな聖体拝領の理念を、現世的な、即物的なものとして投影したとき、血や肉を貪る吸血鬼やゾンビのそれになってしまう、ということです。

そんな「ニセモノの聖杯」、不死の命を得る聖餐として、吸血され喰われようとする生贄、「生ける聖杯」を主人公として一本作ろうと考えたのが、そもそもの趣旨であります。

むずかしいという意見もいただきますが、これ以上ないくらいシンプルな話です。むしろ、わかりやすく単純化しすぎていて、コンセプトがむき出しになっているので、多少の煙幕なりオブラートなりを掛ける必要性を感じています。

【本企画のPRとして】

ゾンビの血液感染に聖体拝領を絡める試みは、本作が初であると思われます。

ゾンビジャンルに、「聖体拝領による復活」という新しい息吹を吹き込んだ本作のインパクトは大きいはずです。殊に海外においては。
(2024年6月追記。NETFLIXで配信中の「真夜中のミサ」に先を越されました。吸血鬼ジャンルですが)

不死者と生者との争いはよくある話ですが、この「聖体拝領による復活」の解釈論争に絡めたとき、物語は一気に深みを帯びます。
それは果たして、霊的復活か?肉体の復活なのか? 古くから議論はなされてきました。
キリスト教圏で土葬が多かったのは、終末後の肉体の復活を信じてのことで、西欧でゾンビ映画が廃れない理由もそんな土葬文化にあるということです。
「ラッパが鳴り、死者が己が墓から出てくる」というわけで、火葬してしまうと復活できなくなってしまう、と信じられてきたわけです。

世界配信をいやでも意識せざるをえない今、こうした文化的背景は大いに利用すべき、と提案するのが本企画です。
たとえば「携挙(rapture)」を題材とした、人類の一定数が突然消失する映画やシリーズは、我々日本人にはピンとこないが、キリスト教圏では結構リアリティのある話らしく、近年とみに多く作られております。
(レフトオーバーズやレフトビハインド、リメイニング、近くはアベンジャーズなど)
時節到来の感ありです。

「不死の体を与えられ、空に携え挙げられる」とされる、携挙預言。
世にいう「空中携挙」の成就こそ我々であると、空に棲むゾンビ、スカイウォーカーが挑発するとき、何が起こるか?
この、一歩踏み込んだゾンビ物、まだ誰もやったことのない新機軸で一本立ち上げようというのが、今回の企画提案です。

追記。
実際、この企画はいろんなところに持ち込んでいるのですが、「私は不老不死肯定派です」という方や、それに近いニュアンスの方も結構いらっしゃいまして、それはそうだろうと私も思う次第です。
現実においても結構、拮抗しているわけで、本企画の「拮抗する対立構造」は、今という時代の、隠れた映し絵だともいえるわけです。
これは最終的に軍配がどちらに上がるかわからない、ということで、先の読めない活劇物を作るにあたっては格好の題材であると、改めて感じています。

要は、配信が当たり前になった今、世界を意識したエンターテイメント、戦記物を作るにあたって、悪役や敵対勢力をどう設定するか?本稿の趣旨はこれに尽きます。
説得力ある悪役をつくることが今ほど困難な時代はないという。今、アクション物を作るうえで、最も難しいのは悪役の動機付けだとも言われます。
ストーリーの緊張感を保つには、最初から負けが確定している予定調和な悪役ではない、主役が勝てそうにないと思わせる説得力を持った、強力な大義名分を持った敵役を設定しなければならない。当然ながら。
さらに、いわゆるグローバルなニーズに応えうるには、どこの誰にとっても人ごとではない、万国共通の普遍的な敵(問題)が望ましい。
この、作り手にとって最大の難関であり、物語のスケールを決定する最初の決め事の提案が本稿であります。

「とにかく何らかの敵が出てきて戦うお話」という、とりあえずのお決まりのオーダーに応えるもの、拮抗する二大勢力の衝突を描くものとしては、まだ誰も足を踏み入れていない、まっさらな、かつ最も大規模な舞台装置が、今、ここにあります。

ゾンビと聖杯、西欧圏では馴染みの二者の異種結合が生み出した、新しい物語群を産み出す地平(フォーマット)の発見報告が、本稿であります。

ものの本には「目新しくて見覚えがあり、しかも必ず対立を予感させるアイデアであること」が、客を惹きつける良いコンセプトの条件である、とあります。

さらに、聖(聖杯)と俗(ゾンビ)、普遍性と同時代性の両立こそ、時代を超えるヒット作の条件と聞きますが、本企画はその可能性を大いに秘めていると言えるでしょう。
(かなり盛ってますが、プレゼンですのでご容赦下さい)

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