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漫画『ルックバック』最高に超いいクソ漫画

クソ映画のない世界

漫画『ルックバック』の作者、藤本タツキは前作『チェンソーマン』の中で、主人公のデンジとヒロインのマキマに次のような会話をさせている。

デンジ「マキマさん あんたの作る最高に超いい世界にゃあ糞映画はあるかい?」
マキマ「私は…面白く無い映画は無くなった方がいいと思いますが」
デンジ「うーん…じゃやっぱ殺すしかねーな」

何故クソ映画があった方が良いのかと言うと、同じくヒロインのマキマのセリフを借りれば、「十本に一本くらいしか面白い映画には出会えな」くても、何百本と映画を観ていくうちに100人が観て99人がクソ映画だと思うような、だけれども自分だけは「その一本に人生を変えられた」と思えるような、特別な映画と出会える可能性があるからである。

漫画だって同じことだ。
『ルックバック』の主人公、藤野が描く作品は京本の作品と比べると確かにクソ漫画だったけれども、その京本一人にとってすれば人生を変えた、地球と同じ重さを持つ漫画だった。

だからデンジが言うように、クソ映画はこの世に存在しなければならず同時に、クソ漫画も、クソ小説も、クソ絵画も、クソ舞台も、クソ音楽も等しく無数に存在しなければならないのだと思う。

例えその作品が誰一人の人生も変えなかったとしても、誰か一人の人生を変えるかもしれない可能性を持ち続ける限り、無くなってはいけないのである。

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クリエイターの狂気

しかし大抵の場合、クソ作品はクソ作品のまま、誰の人生も変えることなく姿を消していく。

何百万ものクリエイターたちが人生を差し出して産んだ作品たちはその努力と裏腹に、馬鹿にされ、コケにされ、大便器の中に流されてしまう。
何者にもなれなかった無数の彼らには、無為に過ぎ去っただけの時間だけが残される。

その事実に目を向けてみると、クリエイターが何かに身を捧げて努力すること、ルックバックの藤野のように学校生活や友人を蔑ろにしてまで努力を重ねることは、一見スポ根漫画のように美しく見えるかもしれないが、殆ど狂気である

彼らは美しい物語の中にいるのではなく、人生を賭したギャンブルの中に身を投じているだけだ。

そして常に、他の全てを犠牲にする恐怖と一人で立ち向かっている。
自らの意思と関係なく努力せざるを得ず、何かを成し遂げるか全てを諦めるまで、自分自身に脅迫され続ける日々を送っている。

努力とは少年ジャンプが言うような、友情に支えられて勝利をもたらす正義の味方なのではなく、狂気じみた覚悟に支えられて勝敗と関係なしに孤独を約束する悪魔なのである。

そんな恐ろしい悪魔と契約しなければならないのに、産み出した作品は無数のクソ作品たちの中に埋もれてしまって誰一人の人生も変えられない可能性の方が高いと思うと、クリエイターになろうとすることはつくづく割りの合わない選択だと思ったりする。

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M君の短歌

僕は他の大多数と同じように、クリエイターになることを一瞬だけ夢見てそれを諦めた人間である。

小学生の頃は漫画ではないけれど、藤野と同じように詩や小説を書いて家族や友人に見せて回ったり、インターネットに投稿してファンメールが届いては得意げになって「将来は作家になるんだ」とサインの練習をしていたりしていた。

いつから書かなくなったのかはっきりと思い出せないけれど、きっかけとなった出来事はよく覚えている。
小学校5年生か6年生かの、国語の授業のときだった。

その授業は短歌を書いて発表するというもので、僕は力の見せ所だと息巻いて、”銀翼の 大きな翼を震わせている 大きな鳥は 自由になりたい”だったかともかく、クソみたいな作品を書いた。

自分より上手い作品を書くやつなんていないと思っていた時に、僕がこっそり見下していた勉強のできない不良の転校生、M君が照れながら次の歌を詠んだ。

君の名を 一文字含んだ 四字熟語
ぐいぐいと書く 午後の黒板

僕はもう得意げになっていた自分のことが、恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなくなってしまった。みっともないとさえ感じた。


それからもしばらく書くことは続けていたけれど、この時に自分には物を書く才能がないことを思い知らされたため、以前よりも打ち込むことはなくなっていった。


藤野にはその後に情熱を取り戻す出来事が起きたけれど、幸か不幸か僕の身には起こらなかった。
結局僕の書いたクソ作品はクソ作品のまま、インターネットの片隅に埋もれていったのである。

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ハッピーエンド

結局僕は藤野や京本と違ってクリエイターになれなかったけれど、今でもまだその狂気を羨ましく、妬ましく思っている。

人生を賭したギャンブルをする彼らにしか見えない景色は何なのだろうかと、空想したりする。

漫画『ルックバック』は、そんな狂った無数のクリエイターたちの賛美歌だ。

彼らの多くは報われないまま死んでいくだろう。

作品を作ることを選んだために友人を失って、その作品すらも日の目を見ずに誰にも知られないまま終わっていく。
どこにも行くことが出来ずに途方に暮れて、もうダメかもしれないと笑みをこぼす。
道の半ばで京本のように、理不尽に殺されたりする。

しかし、どんな終わり方をしようともそれはハッピーエンドなのだ

人生を賭けるだけの価値のあるものを見出せた時点で、ハッピーエンドが約束されているのだ。
そう信じなければ、この漫画はあまりにも虚しいものになってしまう。

今日も僕の知らない何処かの街で、誰も知らないクリエイターが、孤独に作品を作っていることだろう。

きっとそれは最高に超いいクソ作品に違いない。

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