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映画『花束みたいな恋をした』天は人の上に人を創り人の下に人を創る

ラブストーリーに誕生した新たな名作?

結婚するということは、恋愛という”詩”から、日常という”散文”へと下っていくことである。

 ー稲垣足穂ー

恋愛映画と言うと、みなさん何を思い浮かべるだろうか。

邦画に限定してみると、『君の名は。』『ソラニン』『モテキ』『愛がなんだ』『秒速5センチメートル』…色々ありすぎてよくわからなくなってくるが、基本的に共通していることがある。

それは邦画の恋愛映画の殆どが、稲垣足穂が言うところの恋愛という”詩”を描いているということだ。
それに対し映画『花束みたいな恋をした』では、その後の結婚を目前とした日常へ下った"散文"にも、焦点を当てている。

その点が、映画評論家の細野真宏の言葉を借りると、この映画が”直球ながら思いっきりエッジの効いた作品"となり”ラブストーリー映画に新たな名作が誕生した”ように思える理由なのだろう。

確かに、恋愛の先にある虚しい日常をハッピーエンドとして描き切ったという意味では、この映画は飽和状態の邦画恋愛映画群の中で異彩を放っている。

しかし、洋画に目を向けてみるとどうだろう。『(500日)のサマー』、『ブルーバレンタイン』、『ルビー・スパークス』…枚挙に暇がない。

僕はこの映画を、ラブストーリー映画に誕生した思いっきりエッジの効いた新たな名作だと期待して映画館に足を運んだので、正直がっかりした。
洋画で良くある話じゃないかと思った。
めちゃくちゃエモい気持ちになりながら帰り道に一人でビールを飲んでやろうという企みも裏切られた。
まあ、そんな次々と傑作と思える映画に出会えるわけもないよなと、自分を慰めたりもした。

後で田中宗一郎のポッドキャスドを聴いたら「これは普段邦画を観ない洋画を観る人たちをターゲットにした映画だ」って言われてて、見事にやられたわと笑ったりした。

しかしながら、映画を楽しめなかったかと聞かれればそうでもない。

菅田将暉演じる麦くんと、有村架純演じる絹ちゃんの関係の中に、フランスの社会学者ブルデューの論じた文化的再生産論にも似た、2010年代後半を生きる日本人のリアルな身分階級制度を見ることができたからである。

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ラブストーリーに隠された本当のテーマ

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。

みんな大好き福澤諭吉さんの言葉である。
日本人であれば誰しも、学校教育や生活のどこかでこの言葉を目や耳にしたことがあるだろう。

人は誰しも平等なスタートラインに立ち、平等な競争を以って、平等な人生を送れるのだ!と、勇気付けられた人も多いかもしれない。
しかし、この言葉はそういった意味ではない。むしろ逆で、乱暴に言ってしまうと下のようになる。

天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、ってアメリカの独立宣言に書いてあるけどさあ、そんなわけねえじゃん!
頭いい奴もいれば馬鹿な奴もいるし、金ねえ奴もいれば金持っとる奴もおる。世の中不平等に決まってんだよ。
だから恵まれてない奴はお勉強しようなあ!

元も子もないが、これは事実だ。

僕たちはその生まれ持った明らかな格差に、気がついている。一方で、その事実に目を向けようとしない。

その格差は社会や文化によってもたらされたものであるのに、人々は往往にしてそれを個人の責任だと決めつけて攻撃を始める。無意識のうちに、問題の根源を覆い隠してしまうのだ。

麦くんと絹ちゃんだってそうだ。

映画の冒頭から、貧乏な麦くん裕福な絹ちゃんの格差は全く隠されない。

田舎出身でぼろアパートに住み、google mapとガスタンクを眺めるとかいうお金のかからない趣味しか持たない麦くんとは対照的に、
絹ちゃんは金持ちの家庭に生まれ都内の一軒家で、ラーメン食べ歩きと美術館での鑑賞を趣味にしながら悠々と暮らしている。

そして映画が進むうちにこの身分・経済的な格差が、彼らの恋愛という詩を確実に終わらせて、不協和音が響く日常という散文へ落下させていったのにも関わらず、彼らはその原因を個人の変化ということにして、無意識に目を逸らしてしまう。

映画『花束みたいな恋をした』はそんな、表のテーマとして恋愛を選びつつも、裏のテーマとして日本の社会的格差を扱った重層的な映画なのである。

考えすぎだろうか。
しかしこの映画のもう一つの大きな特徴を考えてみると、あながち間違っていないようにも思えてくる。

それは、映画が『今が2015年、次に2016年、そして2017年になりました、最後は2020年です』という時代背景をはっきりと提示しながら進んでいくこと。
ただの恋愛映画であれば『1年後、2年後、3年後』で表現すれば済むところを、わざわざ観客の想像範囲を固定させながら進ませてしまうのだ。

この表現方法の中に、日本の時代背景・時代変遷における問題意識、特に個々がそれぞれ持つ社会資本の差異に関する作者の問題意識が、隠されているとは思えないだろうか。

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"価値観の変化"が、ごまかすもの

麦くんと絹ちゃんが結ばれたのは、共通のサブカル趣味という後天的に獲得した文化的資本のお陰である。

彼らは『ショーシャンクの空に』を観ただけで、押井守すら知らないのに映画通ぶる大人を馬鹿にして、今村夏子の『ピクニック』に共鳴する自分たちを、繊細で特別な高位な人間だと自負することで仲間意識を感じて二人は恋に落ちる。

麦くんと絹ちゃんが別れたのは、異なる生い立ちと育った環境という先天的に持って生まれた文化的資本(加えて経済資本)のせいである。

社会人となって、田舎の親からの仕送りを止められて、ブラック企業で自分一人で生き抜いていく必要がある麦くんは、広告代理店勤務の高収入な親の元で麻布のバーに通う友人たちを持ち、不自由なく気ままに暮らすことができる絹ちゃんを妬ましく思うようになる。

同時に、恵まれた生活と能力をいとも簡単に放棄できてしまう絹ちゃんはサブカル趣味を続けることができるけれど、麦くんは良い生活を血反吐を吐かねば獲得できないために、サブカル趣味に対する優先順位が落ちていき、二人を結びつけていた共通項は薄れ、すれ違うようになっていく。

後天的な資本が先天的な資本に負けていく様が、グロテスクに描かれる。

そして二人はその原因を全て、二人の”価値観の変化”ということにする。
本当の原因は、二人の”身分の違い”であるのにも関わらず、だ。
二人の問題は時間とともに産まれて変わっていったものではなく、初めからそこにあったのにも関わらず、だ。

天は麦くんの上に絹ちゃんを作り、絹ちゃんの下に麦くんを作った。

二人はその事実に気づいただけである。
それでも認めたくないために、夢から醒めたということにして、残酷な事実から目を背けることにした。

あなたの身に、覚えはないだろうか?

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一瞬が孕む永遠

冒頭で、「結婚するということは、恋愛という”詩”から、日常という”散文”へと下っていくことである」という稲垣足穂の言葉を引用した。

この言葉やこの映画が表現しているように、恋愛と結婚は異なる性質を持ち、二人に異なる資本的な共通項を要求してくる全く別物の概念であるように思える(自分は結婚したことないけれど)。

しかし、結婚という日常がうまくいかなかったからといって、恋愛という詩の美しさが損なわれることはない。このことは、映画の中でもはっきりと描かれている。

ここで稲垣足穂に対する中島らもの言葉も引用してみる。

極端に言えば、恋愛というのは一瞬のものでしかないのかもしれない。
唇と唇が初めて触れ合う至高の一瞬、そこですべてが完結してしまい、それ以外は日常という散文への地獄下りなのだ。
ただし、その一瞬は永遠を孕んでいる。
その一瞬は、通常の時間軸に対して垂直に屹立していて、その無限の拡がりの中に、この世とは別の宇宙がまた一つ存在しているのだ。

 ー中島らもー

いやーーーーー、何回読んでもかっこいい!めちゃくちゃ痺れる!

どんなにボロボロに傷ついたって、この言葉があるから生きていけるような気さえしてくる。

この言葉は文庫『世界で一番美しい病気』というエッセイ集に収録されている。Amazonで買える。

この映画を見ると1900円かかる。
しかしこの文庫中古なら138円で買える。
1/10の値段で同じ気持ちを味わえる。
もう別に『花束みたいな恋をした』は観なくていいです。

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