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『パラサイト 半地下の家族』便所コオロギの社会学
ネタバレ
便所コオロギとキム一家
以下は、映画『パラサイト』で主人公キム一家の象徴として現れる生き物、便所コウロギ(カマドウマ)の説明である。
暗く陰気な場所に多く、湿気がこもる場所を好む。夜になると家の中に侵入し、その姿から不気味がられる。その跳躍力は非常に強く、飼育器の壁などに自ら激突死してしまうほどである。
これを踏まえて乱暴な言い方をすれば、映画のあらすじは次のようになる。
映画の冒頭で机に上に現れた便所コウロギ。半地下に住むキム家の父、キム・ギテクはそれを気持ち悪がってはたき落とすが、彼らがおちょくってやろうとしていた裕福なパク一家からすれば彼らもまた、便所コウロギの一匹にしか過ぎなかった。
ここでは主に、ネタバレを含んでキム・ギテクとその息子キム・ギヴの便所コオロギなりの生き方と、社会との関わり方について考えてみる。
彼らはどのようにして自分の立ち位置に気づかされるのか、その結果どのような行動を起こしたのか、彼ら自身や他の誰かにできることは何だったのだろうか。
父、キム・ギテクの殺人
キム・ギテクとその息子キム・ギウは、物語の半ばまでこそ『もしかしたら半地下の生活から抜け出せるかもしれない』という淡い期待を抱いていた。
彼らは飼育器の壁の向こう側の世界を知ってしまったために、その壁を壊し・飛び越えてしまおうとして、身を滅ぼしてしまった。
ギテクは復讐としての殺人によって。
ギウは清算としての殺人によって。
二人は何故このような破滅的な行動を取らざるを得なかったのだろうか。
転機となったのは、彼らが詐欺を図った裕福なパク家の地下に隠れ住む男、グンゼの登場である。
個人経営に失敗して極貧の生活を強いらた彼は完全にパク一家に寄生するだけの生き物となることを選んでいた。そしてギテクはそんな彼への同情を止めることができなかった。自分もまた彼と同じように市場から追い出され、半地下から抜け出すことができなかった人間だったからである。
そしてパク一家から自分や彼への悪意ない差別意識を向けられたギテクは衝動的に、一家の主人パク・ドンイクを殺してしまうこととなる。
それは、同じ人間としての尊厳を踏みにじられたことに対する復讐であった。
彼らの知らない地下室で食糧を漁りながら、“ここが家で、ここで結婚したようにも思える”とまで言い切り、崇拝し切っていたグンセ≒自分の生き方を、指一本ではたき落とされてしまったことに対する怒りの発散であった。
ギテクは貧しいながらも、何事も計画的で家族からの信頼を集める良き父として、なんだかんだ満ち足りた生活を送っていたが、一歩間違えればグンセと同じような運命を辿っていたかもしれない。
だから、そんな彼や自分に徹底的に無関心なドンイクを許すことができず、力限りに間違った体当たりをかましてしまったのだ。
息子、キム・ギヴの殺人
一方その息子、ギウはどうだろうか。
父のギテクが便所コオロギでしかなかった人生の誇りを守ろうと殺人を犯してしまった一方、彼は便所コオロギのような人生を回避するために殺人を犯そうとした。
グンセはギウにとって、彼が便所コオロギである秘密を知っている人間だったからだ。
彼は自分にパク一家の家庭教師を依頼した有名大学の友人(彼は便所コオロギであるギウに恋人を取られるなんて思ってもいなかった)に成り代わって、一家の娘との結婚を夢想するようになっていた。
「このままパク一家を騙し続けることができれば、飼育機の壁を飛び越えることができる」
そのためには、便所コオロギであった事実を隠し通し、過去にして清算してしまうためにグンセを殺す必要があったのである。
彼には未来があった。この残酷な格差社会を生き抜いていくために、便所コオロギとして生き続けるわけにはいかなかった。
だから同じ仲間を踏み台にして、天端の見えない壁に向かって望みの薄い跳躍を試みようとしてしまったのだ。
しかし結果として、二人の試みは実を結ぶことなく、映画は終わる。
それではギテクとギウは、グンセのように地下にいる便所コオロギのような生活を甘んじて享受していれば良かったのだろうか。
彼らとは別次元で暮らす特権階級への怒りも不満もなく、あの半地下を楽園であると信じながら暮らせば良かったのだろうか。
そうではない。以前に書いたように社会への怒りや不満が社会を良くも悪くも変えるからである。
じゃあ、そのために彼らの行動は正当化されるのか。されるはずがないだろう。
きっと彼らに必要だったのは、飼育器の壁をすり抜けて、自らの存在を知らせるための表現を持つことだったのだと思う。
便所コオロギと社会学
社会学者の大沢真幸は、近代社会の特徴を"自分が何であるか、自分はどこへ向かっているのか、自分はどこから来たのか、といった自己意識を持つ社会"であると定義づけている。
そして、ある社会特有の病の中で悩める個人が精神の営みを通じて戦った軌跡こそが、社会学と成りうるではないかと。
この定義を映画に当てはめてみる。
ギテクもギウもグンセも映画を通じて、超格差社会という韓国特有の病にうなされながら「自分はただの便所コウロギなのか。とすればどのような未来が待っているのだろうか。待てよ。本当に生まれながらにして便所コウロギなのか?その事実は変えられるのではないか?」等々と、自分に問いただしてきた。
ややこしい言い方をしてみると、社会学が、その時の社会(韓国の格差社会)特有の価値理念や現象を解釈することを通じて、社会自身の変革を促していくものであるのですれば、彼らの絶望的な自問自答そのものが社会学の一部となって、次の世代によるなんとなく良い社会を実現するための礎となっただろう。
彼らの苦しみと問い自体に、意味が宿っていたのである。
だけれど彼らは、その問いを投げかけるための手段・道具=表現をほとんど持っていなかった。
ギテクとギウは便所コウロギであることを隠さなければならなかったし、グンセ(後にギテクも)は社会との関係を断ち切って地下に潜り込んでいたからだ。
そのために、彼らは人を殺したり、個として生きることを放棄することしか出来なかったのである。
無関心による暴力
じゃあ、彼らが正当に自分たちの苦しみを表現する方法さえ持っていれば良かった。結局、自業自得じゃないか!
そう考えるかもしれないが、その考え方は自分を守るために他人を突き放して理解を拒む態度に他ならない。
便所コウロギより恵まれている自分と、便所コウロギはなんら変わらない同じ人間である事実から目を背けているだけだ。
彼らが表現を持つことよりも重要だったことは、社会に生きる誰もが、日常生活の中で誰にも隠されていないが誰の目にも触れない、便所コウロギたちの断片を眺めようとする態度なのだっと思う。
事実、パク一家にとってキム一家の生活は、彼らに隠されることもなく地下鉄の臭いとして日常生活の中に転がっていた。
彼らが普段からその臭いに関心を持っていたとしたらきっと、この映画は成立しなかっただろう。
映画や本と同じように、表現は作者と観客や読み手がいて初めて成立するのである。
結局、わるいのは誰?
ここまでの文章で、ギテクは何故人を殺してしまったのだとか、ギウは何故人を殺すことを目論んだのだとか、どうすれば悲劇は起きなかったのかだとか、あれこれ書いてみたけれど、どうも釈然としない。そもそも映画って、こんなことをして楽しむものではない!とも思ったりした。
きっとここに書いたことは全て、的を得ていないのだと思う。
何故ならこの映画を支えているのは、個を捉えようとする視点ではないからだ。
この映画に悪人など一人も出てこない。
殺す側も殺される側もそうでない人もただ悪意なく生きていく中、偶然が重なって展開されていく。だから、個人の背景や考えがあーだこーだ言ったところで説得力を持たず、ピンボケする一方になってしまう。
この映画は、観客を抱きかかえこむ視点によって支えられている。
観客が映画に見透かされているような気味の悪さ、“じゃあお前はどうするんだ“と詰問されているような居心地の悪さが、この映画の核を成しているのだ。
では、この僕たちを観てくる視点の正体が何なのか。僕にはうまく説明できる気がしないし、説明しようとも思えない。
映画の重要な部分は、映画を観た個人各々の中で感覚として残るものであって、それは余計な言葉によって再構築しようとした瞬間に、手元からスルスルと逃げ出してしまうからだ。
だから、この感覚を言葉によって説明することはできない。
だが似たような感覚、唐突に頬を殴られたような感覚を僕に与えた文章を、思い出すことはできる。
”私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。<中略>その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて(いても)、<中略>(世の中の人たちは)見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。” 『女生徒』太宰治
映画『パラサイト』が映し出した韓国社会は、明らかに間違っている。
じゃあ、誰が?
ギテクが?ギウが?グンセが?インドクが?彼の妻が?その子供が?半地下が?豪邸が?受験戦争が?カステラ屋が?山水景石の岩が?
きっと、他の誰も間違っていない。
何故ならわるいのは、この映画が作られた社会を構成する全てのあなたなのだから。