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「うちの妻」と「ぼくの妻」の違いとは?なぜぼくらは「うちの」という言葉を使うんだろう?
年配の方で自分の妻のことを「うちのやつ」と呼ぶ方に、たまに出会うことがある。
30代40代でも「うちの妻」「うちの奥さん」「うちの嫁さん」と呼ぶ人もいる。ぼくもたまに「うちの妻」と呼んでいる。
「ぼくの妻」と呼んでもいいのだけど、なぜ「うちの妻」と呼ぶのだろうか?
その違いはなんなんだろう?
ぼくはが「うちの妻」と呼ぶときは、妻のことを「配偶者」や「パートナー」として認識しているというより、「うち(イエ)」に所属する1人としての妻という感覚を感じているような気がするのだ。
「うち」という言葉にある意味やイメージについて、そして、妻との向き合い方について、今日は考えてみたいと思う。
「うち」ってどういう意味?
「うち」を辞書で引いてみると、こんなことが書いてあります。
1 (「中」とも書く)ある一定の区域・範囲の中。
2 自分が所属しているものをいう。
出典:goo国語辞書
確かに、自分が所属している組織のことも「うち」と呼びますね。
「うちの会社」とか「うちのチーム」とかですね。
イメージとしては、「ものの包み込まれた中がわ」という感じですよね。
「うちの会社」と言う人は多いけれど、「今、私が働いている会社」と言う人は少ないですよね?
これって、自分が「会社という『もの』の中に包み込まれている」というイメージですよね?
自分がドラゴンズ(名前は適当)という野球チームに入っているなら、ドラゴンズの一員という意味で「うちのチーム」と言いますよね?
自分はドラゴンズの中の1人ということであり、ドラゴンズの中に自分がいるというイメージですよね?
では、夫婦の場合はどうでしょう?
「うちの妻」と言う場合、「〇〇家という家族の中に含まれている妻という存在」というニュアンスですよね。
そして、「うち」と呼んでいるように、自分も妻もその中(〇〇家)の中に含まれていると認識しているわけです。
「うちの妻」と「ぼくの妻」の認識の違い
「うちの妻」という場合、家族というモノの中に妻も自分も含まれているというイメージですよね。図解するとこんな感じです。
ただ、こうやって図にするとわかるんですが、これって「自分を同一視」しやすくなるなって思うんです。
妻も自分と同じ考えを持っているはずだという考えですね。
極端になると、妻も自分と同じ考えを「持つべきだ」という思想になるのかもしれません。
同じ家族なんだから、夫婦の一員なんだからという「オレたち、同じモノの中に含まれているよね?」という認識を無意識に持ちやすいなって思うんです。
そんなわけなので、ぼくはあえて妻と自分を分けて考えるように意識しているんです。図解するとこんな感じです。
お互いが別々の存在であることを強く意識しないと、ぼくはついつい「妻も自分と同じ」という偏った意識を持ってしまうんですよね。
なので、あえてこんなイメージで妻のことを捉えています。
さらに、「ぼくの家族」という場合のイメージはこんな感じです。(本当は子どももいますが、複雑になるので省きますね。)
ぼくも妻もお互いが別々のモノの中に入っていて、お互いを別な人間として認識している。
その上で、そんなぼくらを包み込むように「家族」という組織があるって感じです。
フリーランスの人たちが、数人で共同プロジェクトを回すイメージに近いかもしれないです。
もしくは、映画制作のチームみたいな感じです。
映画制作って、監督や役者や照明や音響や衣装デザイナーといったそれぞれの分野のプロが集まって一つの作品を作りますよね。
家族もそれぞれが自分たちの特色を生かして、家族という組織を作っているというイメージを持っているんです。
それから、もしかしたら、それぞれの個人を包んでいるモノが自我と呼ばれる物なのかもしれないですね。
こんなイメージですね。
「うち」に含まれる「自我の侵食」
そして、自我というモノの存在を意識せずに、「うち」というモノの中に妻も自分も含まれていると認識することは、お互いの自我を認識しないということになると思うんです。
こんなイメージです。
本当はそれぞれに自我があるんだけど、お互い相手の自我がきちんと見えていない状態ですね。
夫婦が「望まぬケンカ」をしてしまうのは、これが原因なんじゃないのかなって思うんです。
見えてはいないけど、相手には確実に自我(自分だけを包んでいるモノ)があるのに、その存在を無視して「うち(自分と妻が包まれているモノ)」の中でしか話をしない。
もしくは、その「うち」という枠組みを自分の延長で考えていて、その中に妻も含まれていると考えると、自分の理屈だけで妻のことを捉えるようになるなって思うんです。
自分の自我の中に妻も含まれているという認識ですね。
こんなイメージです。
夫婦がお互いの自我を認識して、その上で自分たちがどこにいるのかを考えないと、相手の自我を侵食してしまうんじゃないのかなって思うんです。
「夫婦がお互いを思いやる」というのは、相手の自我を認識して尊重することなのかもしれませんね。
ぼくも意識しないと、ついついこういう考えになる時があるので気をつけていこうと思います。
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