妻を”性的コンテンツ”として消費していないか?
「妻との性生活がないのが辛かったけれど、少しずつ気にならなくなってきたんです」
そんな言葉を男性から聞くことが増えてきました。
ぼくは男性から夫婦関係の相談を受けることが多いんですが(最近は女性向けも始めました)、多くの方は妻とのセックスレスを解決したくて、ぼくのところにやってくるんです。
でも、ぼくとなんども話をしたり、カウンセラーさんのところに通われたりするなかで、自然と性生活がないことに不満を抱かなくなってくるんです。
もちろん、まったく不満がないわけではないけれど、以前と比べたらだいぶ落ち着いてくるんですね。
これはいったいなんだろう?
と思っていたんですが、一つの答えは妻を”性的なコンテンツ”として見なくなることなのかなって思うんです。
妻を性的なものとして消費しようとするのではなくて、ひとりの人間として大切にしようと思うようになったことが大きいんだと思うんです。
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妻との関係に悩む男性のなかには、嫌がる妻に対して性的なコニュニケーションを押し付けたことがある人もいます。
これは、大なり小なりほとんどの既婚男性が心あたりがあるんじゃないかなって思うんです。
自分では押し付けているつもりはなくても、妻としては強要された感覚があり、とにかく我慢をしていたということが多いんです。
そんな日々のなかで、妻は夫に対して嫌悪感をつのらせていき、いつか大きく爆発(離婚、妻の浮気など)する時限爆弾へと、その嫌悪感は変わっていくんです。
そして、せっぱつまった状況となってぼくに連絡がやってきます。
第三者として見てみると、妻に対して性的なコミュニケーションを強要したことが大きな問題なのですが、多くの男性はこれを問題として認識することがなかなかできません。
なぜ、男性は"性的なコミュニケーションを妻が嫌がること"を受け止められないのか?
それは、夫婦ならば愛し合っているはずという幻想が大きいんだと思います。
愛し合っているならセックスがあって当然だ。愛し合っている夫婦ならセックスがないわけがない。
そういう思い込みがあるんです。
だけど、夫婦だからといって無条件に愛し愛される関係になれるわけじゃないんですよね。
恋愛ホルモンの効果が切れた夫婦にとって、性的コミュニケーションができるかどうかは、ふたりの間に信頼関係があるかどうかなんですね。
20代の頃のような情熱はホルモンの作用でしかなかったわけですから、あの頃のような関係はもう帰ってこないんです。
だからこそ、大切なのは”妻から夫への信頼関係”なんです。
妻からの信頼関係を得るためには”大切にされている実感”が必要なんです。
この人はわたしのことを大切に扱ってくれている。この人ならわたしを預けても大丈夫。そう思ってくれないとダメなんです。
ここで問題になってくるのは、妻を性的コンテンツとして消費しようとする夫側の態度です。
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他の誰でもいいわけじゃない。愛している妻だからこそ性的なコミュニケーションが取りたいんだというお話をよく聞きますし、その気持ちもよくわかります。
ですが、嫌がる妻にそういったことを強要するとき、本当に妻のことを愛しているといえるのでしょうか?
心のつながりがない相手とそういった行為をするとき、あなたは本当に幸せなのでしょうか?
自分の欲望に押し流され、妻を”性的なコンテンツ”として消費しようとする気持ちがそこにはあるんじゃないでしょうか?
日本は性産業に関する規制が驚くほど緩いので、あらゆる所で男性向けの性的マーケティングを目にすることが多いですよね。
ぼくが小学生の頃には、通学路をちょっと外れたところにポルノ映画館があり、街外れにはその地域では有名な風俗街もありました。
インターネットでは簡単にありとあらゆる性を消費できます。
家父長制が強い地域だと、嫁は後継を産むだけの存在であり、家族の面倒を見るだけの召使いのような扱いをされるところもあります。
ぼくの祖母は長男を産んだ後、夫が戦死し、家から子供を置いて追い出されました。(この記事、個人的にすごく好きなのでぜひ読んで欲しいです)
こういった文化規範のなかで育つことで、ぼくら男性は”女性を軽く扱うこと”や、”性的な消費物”として扱うことに鈍感になっていったんじゃないのかなって思うんです。
また、なんらかのストレスのはけぐちとして、性が消費されるという面もあると思います。
伝統と親類ネットワークによって構築されたイエ制度が滅びつつある今、ぼくら男性が大事にしなければいけないのは、イエではなく”妻との生活”なんじゃないのかなって思うんです。
ぼくのご相談者さんの多くは、こうおっしゃることが多いです。
妻を”性的な消費物”として扱わないことで、逆に性生活が復活された方もいます。
夫婦の性生活において大切なことは、”妻を人として大切に扱う”という当たり前のことに、ぼくら男性が気がつくことなのかもしれません。