すくい上げたい”喜びの記憶”という砂。
「そこはSorryじゃなくて、Thank youの方がいいよ」
クラスに5分ほど遅れてしまい、Sorryと謝ったぼくに先生はそう言った。
Skype画面の向こうでは、扇風機の風が、濡れた先生の髪を乾かすように吹いている。
さっきまで海で泳いでいたそうだ。
SorryじゃなくてThank you for waiting の方がいいよと言われたとき、ぼくは一瞬なんのことかわからなかった。
「遅れてごめんなさい」と伝えたいのに、なんで「ありがとう(Thank you)」になるんだろうと。
その日、先生が話してくれたことは、単なる英語の勉強だけではなく、ぼくの物の見方にもいい影響を与えてくれるきっかけになった。
たぶん、ぼくは自分が思っている以上に、物事を悲観的に捉えるクセがついていたんだと思う。
そして、そのせいで、本来なら感じられるはずの幸せを取りこぼしていたのかもしれない。
仕事に子育てに忙しい毎日を送っているぼくらなら、そういう傾向がきっと高いんだと思う。
◇
「Thank you for waitingなら、待ってくれてありがとうねという気持ちが伝わるから、そっちの方がいいよ。もちろん、本当に謝らないといけない時はSorryだけど、今回のケースはThank you for waitingでOKだよ」
Thank you for waiting.
Thank you for waiting.
先生は実際に使う場面のように、声に抑揚をつけてそう言ってくれました。
その言葉を聞いたとき、なんだか爽やかな気持ちになったんです。
一方で、Sorry(ごめんなさい、申し訳ありません)と言われたり、言ったりするときって、心がぎゅっと少しだけ締めつけられるような感覚があるんです。
そこまで言うと大げさかもしれないけど、だけど、誰かから「ごめんなさい。申し訳ありません」と言われるのって、そんなに気持ちのいい体験ではないと思いませんか?
ぼくは、今回の件があるまで気がつかなかったんだけど、SorryとThank youを比べたら、そう思うようになってきたんです。
「失礼致しました。申し訳ありません。ごめんなさい。すみません」
日本語には謝罪の言葉がたくさんあるけれど、なんだか聞いてるこっちが申し訳ない気持ちになってくるような気がするんです。
「もういいから、やめてください。顔を上げてください」と言いたくなるし、相手にそう思わせる言葉だなって思うんです。
本当に謝罪が必要な場面では謝った方がいいだろうけど、そういう場面以外では必要ないし、なによりも、ぼくは無駄に謝ることが嫌だったんだなって気がついたんです。
Thank youと言った方が、言う方も言われる方も、爽やかに物事を前に進められるような気がするんです。
あと、これは、物事をポジティブにとらえるか、ネガティブにとらえるかの問題でもあるかなって思うんです。
◇
英会話レッスンの冒頭で、今日はどうだった?と聞かれることがあるんですが、だいたいぼくは子育てが大変だというグチばかりなんですね。
3人の子どもたちが元気すぎて疲れてしまうと言った話をするんですが、2回目のレッスンで先生からこう言われたんです。
「子どもたちの成長が見られるのは喜びだよね。子育てって、『喜びと大変さ』っていうバランスがあるよね」
確かに、ぼくは「大変さ」の話ばかりをしていたんですね。なので、意識して「喜び」の方の話もしてみたんです。
すると先生はこう言ったんです。
「よかった。アツが子育てのポジティブな面も見てくれていて」
ポジティブな面の話をすると、なんだか気持ちがいいんですよね。明るい気持ちになれる気がするんです。
なんて、単純なヤツだと思われるかもだけど、たぶん、ぼくは物事のネガティブな面ばかりを見てしまうクセがあるんです。
それは、実際に毎日が大変だから、どうしてもネガティブな側面に気持ちが持っていかれてしまうという、どうしようもない部分もあると思うんです。
4歳の三男はお菓子買ってーー!と、スーパーのお菓子売り場でゴロゴロ転がるし、深夜3時に「パパー!パッパー!」と寝室に呼ぶし。
8歳の長男次男は、いつでも、どこでも、しょうもないことでケンカするし。
3人が同時に話しかけてきて、頭がおかしくなりそうになる瞬間は毎日だし、ひとりひとりの話にできるだけつき合ってあげないと、情緒は不安定になるし。
それから、誰かに子育ての話をするときって、「こんな大変なことがあって〜」と、苦労話をする習慣みたいなものもありませんか?
「うちの子たち、おまんじゅうみたいに可愛くて、本当に大好きです」
なんていう人はいなくて、
「こんなことやらかしたんですよ。本当にまいりますよ」
みたいに、本気で悩んでなくてもグチを言わないといけないみたいな。そんな空気がありませんか?
それって、ポジティブな面にあえて目をつぶり、ネガティブな面にわざと注目しているんですよね。
文化的な背景(日本は災害が多いからネガティブなものに反応することで生き残ってきたとか、農耕民族だから団結するために共感を得られるコミュニケーションを選んできたとか)があるのかもだけど、ポジティブな面をあえてみないようにする必要はないんじゃないかなって、最近は思うんです。
子育てのなかで嬉しいことはたくさんあるけど、ぼくは忙しすぎる毎日のなかで、それをあえて見ないようにしていたのかもしれないです。
◇
日々の生活をひとつひとつすくいあげれば、心から嬉しいことってたくさんあるんですよね。
ぼく、仕事から家に帰るたびに、長男が玄関までダーッと走ってきて、飛びついてきてくれるのが大好きなんです。
三男がよくわからない謎のダンスを見せてくれるのも好きです。
次男がマインクラフトで作った謎のアスレチックをぼくにやらせてくれるのも大好きです。
子どもたちが遊んでいる夕方に、妻とふたりだけでおしゃべりをするのも大好きです。
家族みんなで自転車に乗って、近くのお寺や公園に遊びに行くのも大好きです。
ひとつひとつをこうやって思い返してみると、嬉しいことってたくさんあるんですよね。
こんな話を喜んで聞いてくれる人がいないから、思い出すこともなかったのかもしれない。ポジティブな話よりネガティブな話の方が、共感を得られやすいですもんね。
ぼくらがネガティブな面に注目してしまうのはしょうがない側面もあるけれど、それは選べることでもあるのかなって思うんです。
なにかがあったときに、ポジティブにとらえるか、ネガティにとらえるかは、ぼく自身が選べることなんじゃないかなって。
さっきの嬉しかったエピソードだって、ネガティブな側面から見ることもできるわけですからね。
Skypeの向こうから伝わってくる暖かい気候のせいか、先生の温かい人柄のせいか、英語という言語が持つ構造上の仕組みのせいなのか。
最近のぼくは、物事のポジティブな面を選びやすくなってるなって、嬉しいことをすくい上げて、誰かと共有したくなってるなって、思うんです。
指の間からサラサラと落ちる砂のように、幸せって、しっかりとすくいあげないと、それがなんなのかわからないなとも思うんです。
そして、喜びの記憶を意識してつかもうとすることは、そんなに悪いことじゃないなって、最近のぼくは思うんです。