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「大切にされている実感を噛み締めたい」 と、妻は言った。

「そうなのよ、大切にされている実感を噛み締めたいのよ。」

プレミアムモルツ〈香る〉エールを飲みながら、妻はそう言った。

木曜日の21時半のことでした。

あともうちょっと金曜日だけど、どっと月曜からの疲れが出てしまったぼくらは、息抜きにビールを飲みながらおしゃべりをしていたんです。

「日本の夫婦: パートナーとやっていく幸せと葛藤」という本に「夫婦の不仲は”ケアの不均等”に原因がある」といったことが書かれており、そのことについてぼくらは話し合っていました。

ケアとは、言いかえれば”思いやり”のこと。

思いやりを”受ける、与える”といった行動が均等が取れていれば、心も安定するけれど、そのバランスが崩れると夫婦関係にいびつなヒビが入るようになる。

崩れたケアバランスをたもとうと、家庭外にケアの与え手を求めることになることもある。

それが進んでいくと、浮気や不倫に発展することもあるという。

ぼくらはどうやってケアのバランスをたもち、妻との関係を安定化させることができるんだろう。

それは「大切にされている実感を噛み締めたい」という妻の言葉に、ヒントが隠されているのだと思う。

夫婦間のケアバランスとは、そもそもケアとはなにかについて、今回は考えてみたいと思う。

子どもが生まれ”ケアしてばかり”になった妻

ぼくら夫婦のケアバランスを考えてみると、子どもが生まれたばかりの頃の妻は”ケアをする”ばかりで、”ケアをされる”体験が少なかったんだと思んです。

生まれたばかりの双子を生かし続けるために、朝も昼も夜も、ランダムに絡まり合っていく2〜3時間おきの双子への授乳によって、妻は極度の睡眠不足になり、家の中で倒れたこともありました。

ぼくも子どもたちへの世話にばかり集中し、妻に優しい言葉をかけていなかったと思います。

いい父親というのは、子どもの世話をする父親のことだと思っていましたし、目の前の双子が死なないよう、生かし続けることでぼくらのキャパは常にオーバーフローになっていたんです。

誰かにケアされることもなく、ひたすら子どもたちの面倒を見続ける生活は辛かったですが、ぼくは昼間は会社に行き、誰かにその苦労をシェアすることができました。

同じような育児中の同僚と会話をして、気持ちが楽になったこともありました。思えば、ぼくにとっては会社での誰かとの交流が一つのケアになっていたのかもしれないです。

だけど、妻はその間ずっと家でひとりでした。社会から断絶されたような孤独感を感じていたとよく言っていました。

優しい言葉をかけてくれる人もおらず、家事を代わってくれる人もおらず、ずっと”ケアをする側”として、ケアの不均等のど真ん中にいたんだと思うんです。

子どもたちが3歳くらいになった頃、赤ちゃんではなくなった彼らのお世話は少し楽になり、ぼくら夫婦はふたりで会話をする時間が少しづつ増えていきましたが、ぼくらの間には”ある違和感”が生まれていたんです。

消失した夫婦間のケア

妻と会話をしていても、どこか冷たい空気を感じたんです。

なんというか、ぼくがここにいなくても妻は寂しくないのかもしれないという感覚でした。

ぼくの言葉に共感してくれず、会話が一方通行になってしまうことが増えたんです。

おそらく、ぼくの態度もそうだったんだと思うんです。

妻の言葉に共感を示すことがなく、妻の感情に寄り添いを見せることもなかった。ただ、お互いに言いたいことを言うだけ。

ぼくらの言葉は相手に届くことがなく、しばらく空中を漂っていたかと思うと、行き場を失ったその言葉はまた本人の中へと戻っていく。

妻の心に触れることができなくなったぼくは、とても寂しい気持ちを感じていました。でも、それがどこからやってきたのか、どうすればいいのか、しばらくわからなかったんです。

どうして、ぼくらの言葉は相手に届かないのか。

それは、ふたりとも”ケアし合う習慣”を忘れてしまっていたからだと思うんです。

出会ったばかりのぼくらは、お互いのことを気にかけあっていて、相手が少しでも元気がなければ「だいじょうぶ?なにかあったの?」といつも気にかけていましたし、相手のためならなんでもできたんです。

恋愛の力がなせる技と言えばそれまでですが、これは環境の変化によってお互いへのケアに関する習慣が失われてしまったからでもあると思うんです。

子どもが生まれたことで、ぼくらのケアの矢印は子どもたちにのみ向かい、ぼくから妻へ、妻からぼくへのケアは失われてしまったんです。

お互いにそんな余裕はまったくなかったですし、お互いへのケアの重要性に少しも気がついていませんでした。

ぼくも妻も、ケアに飢えていた。

お互いが飢えていることを知らず、ただただ相手からのケアを求め、ぼくらは衝突していたんです。

”気にかけて欲しい。優しい言葉をかけて欲しい。こっちを見て欲しい”

自分の心の奥底に眠る感情に気がつくこともなく、ただただ相手の”わかってくれない態度”にいらだっていたんだと思うんです。

爽やか系ビールと紅茶クッキーと海鮮つまみ

三男が生まれたことで、ぼくは妻へのケアの重要性に気がつき、子どもたちへのケアよりも妻へのケアに集中するようになりました。

「与えよ。さらば与えられん」と言いますが、ケア(思いやり)に関しては本当にそうだなと思うんです。

妻をケアすることによって、ぼくも妻からケアしてもらえることが増え、大切にされているなと実感できることが増えていったんです。

そして今、三男は3歳になりました。ちょうど上の子たちがこの年の頃に、ぼくら夫婦は不仲になったのです。

忘れてはならないあの頃を思い出し、ぼくは週末が近づくと、会社帰りに妻の好きなものを買って帰ることを習慣にしているんです。

(こないだクラフトビールを買って帰ったけど、苦くて好きじゃないと言ってたな……。)と思い出し、妻が好きそうな爽やか系のビールを買ったり。

妻は爽やか系ビールが好き

(そういえばイギリスのクッキーが好きだったな。紅茶系のクッキーも好きだった気がする……。)と記憶をたどり、妻好みのクッキーを買ったり。

妻はイギリス系のお菓子が好み

海鮮好きな妻のために、エビやホタテが入ったつまみを買って帰ったり。

海鮮ものとゴロっとしたマッシュルームが妻は好き

ちなみにぼくはエビもホタテも好きじゃなくて、なんなら疲れている時はエビアレルギーになってしまうくらい苦手です。

1,000円にも満たない買い物だけど、妻は喜んでくれるんです。

妻が好きなものをぼくが買ってきたことにではなく、”大切にされている実感を感じられること”に妻は喜びを感じるそうです。

この人はわたしのことを考えてくれていたんだ。

仕事帰りの電車の中、改札を降りまっすぐ家に帰らず駅ビルに入るとき、お店で妻が好きなものを選ぶとき。

ぼくが自分のことだけを考えているのではなく、妻のことを考えていたことに、妻を大切に思っていることに、そのぼくの感情に妻は幸せを感じるのだそうです。

たかがビールとお菓子とつまみだけど、妻にとってはぼくが妻を大切に思っている証でもあるんです。

妻が好きなものを買って帰れば妻のご機嫌が取れるという単純な話ではなくて、妻はなにが好きだったかをきちんと記憶し、”今日の妻”はなにを食べたいかを想像し、妻のことを真剣に考えて行動するということなんです。

呉服の販売員をしていた頃、売れない販売員は「素敵ですね」「キレイですね」とうわ言のように繰り返していました。

だけど、売れる販売員は違いました。

その人がなにを好きでなにが嫌いか、なにを求めていて、どうなりたいと思っているのか、呉服を通じてなにを手に入れたいと願っているのか。それらを真剣に考えていました。

夫婦関係も同じだと思うんです。相手がなにを求めているのか、それを真剣に考え続けないと、本当に妻が望むものを与えることができないんだと思う。

相手のことを真剣に考え、行動する。その姿がにじむように相手に見えるとき、大切にされている実感をありありと感じられるのかもしれない。

「大切にされている実感を噛み締めたい」

この妻の言葉には、日常生活のなかでケアされることが少ないことを物語っているんだと思う。

仕事でも家庭でも責任を持つことが増えたぼくらだからこそ、お互いに支え合っていきたいなと思うんです。

その支え合いの根底にあるのが、ケアなんじゃないかなと思うんです。

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