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子どもが生まれることと、親になることの違いに気がついた話

ストレッチャーに乗った生まれたばかりの長男がじっとこっちを見つめている。

ストレッチャーの上には四角いガラスケースがあり、そのなかに灰色の粘膜が顔についている長男が収まっている。

ほんの5秒ほどだったと思う。

彼は手術室から急に現れ、看護師によってすぐにNICUに運ばれていった。

それは、ぼくが”親”になった瞬間だった。

いや、そうじゃない。当時はそう思っていたけど、今ではそれが間違っていたことがよくわかる。

それは、ぼくが親になった瞬間ではなく、ただぼくと妻の子どもが”生まれた”瞬間でしかなかったのだ。

”親になる”ということは、出産という目に見える変化ではなく、時間をかけてなるものだということに、ぼくは数年後に気がついた。

”子どもが生まれる”ことと、”親になること”の違いには天と地ほどの大きな差があったんだ。

まだ子どもがいなかったころ、ぼくは”子どもが生まれれば”親になるもんだと思っていたんです。

”親になる”ということは、”子どもがいる”ということだから、出産と親はつながっていると思っていたんです。

だけど、生まれたばかりの長男と次男をいくら見つめても、ぼくのなかに親としての感覚は大きくならなかったんです。

それよりも、双子妊娠や帝王切開による母体へのリスクの方が心配で、妻が死んでしまわないかという不安の方を強く感じていました。

帝王切開が終わるまで、妻が死んでしまわないか、それだけが気がかりでした。

手術室から運ばれてくる子どもの姿よりも、妻の姿の方を早く見たくて(生存確認したくて)しかたがなかったんです。

やっとドアの向こうから妻が運ばれてきたときに、心から安堵したのを今でもよく覚えています。

子どもが生まれて嬉しいというより、大きな問題なく出産を終えることができた安堵感が大きくて、仕事でいうなら、遅延も品質不具合もなく、無事に商品を納品できたような感覚でした。

NICUにいる長男次男をガラス越しにいくら見つめても、ぼくのなかに親としての自覚が芽生えることがなく、いったいどうしたらいいんだろうと戸惑っていたことも覚えています。

でも、いざ3人が退院し、家に帰ってからはそんなことを言っていられる余裕はなくなりました。

2〜3時間おきの授乳が辛いってよく言いますよね。

双子の場合、そのタイミングがずれることが多いんです。すると、2〜3時間起きじゃなくて、1時間おきになってしまったりして、親が寝れる時間がこれっぽちもなくなるんです。

お昼寝や寝かしつけをふたり同時にしてくれるとは限らず、一人をやっと寝かしつけたと思ったら、もう一人が泣き出してしまって、やっと寝てくれた方がまた起きてしまったり。

がんばってあやすのだけど、赤ちゃんは話してくれないから、なにが嫌かを言ってくれず、こっちが不機嫌ポイント(お腹が空いている?眠い?)を探さないといけない。

妻の機嫌が悪いときに、なにが原因かわからなくて困るありますが、その比じゃないんですよね。

不機嫌になった妻の対応の方が何百倍も楽でした。

なかでも辛かったのは、寝かしつけでした。初めての育児で右も左も分からなったぼくらは、ふたりを同じ部屋で寝かしていたのですが、これがよくなかったようです。

双子がお互いの泣き声で起きてしまって、一晩中寝ない日もあったんです。

長男が泣き出したので、抱き上げてよしよしとあやし、寝たかなと思って布団に置いたら、次は次男が泣き出してしまい、抱き上げてあやし、寝たかなと思って布団に置いたら、今度はまた長男が泣き出す。

これが何時間もエンドレスに続いていくんです。おかげで、今でもぼくは左胸筋だけ異常に発達しています。左肩に抱えてあやすことが多かったからです。

ときには、長男を右肩に、次男を左肩に乗せて、ふたり同時にあやすこともありました。米俵を担ぐようにふたりを抱え、上下に揺れながらふたりを同時に寝かせていくんです。

そんな日が何日も、何年も続き、逃げ出したくなる日が何度もありました。

今でもはっきりと覚えている夜があります。思えば、それがぼくが親になった瞬間だったのかもしれません。

長男次男がまだ1才の頃だと思います。その日の夜はいつも以上にふたりの寝つきが悪く、交互に抱っこしてあやしていました。

一人を寝かせて布団に置き、そのタイミングで泣き出したもう一人をあやすことを繰り返す。

その日の夜は、なぜかそのサイクルが止まらず、21時を過ぎても22時を過ぎても、そして深夜12時を過ぎても終わりませんでした。

4時間以上、子どもたちを抱っこし続け、ぼくの体は悲鳴をあげていました。

そして、その双子あやしサイクルは深夜2時を過ぎても止まりませんでした。

体力が限界を迎えていたぼくは、心のなかで(止まない雨はない。明けない夜はない)と唱え続け、気力を振り絞って双子を抱っこし続けました。

結局、子どもたちが泣き止み、寝静まったのは朝の5時でした。

文字通り、一晩中ぼくは子どもをあやし続けたんです。

今ならそんなことをせず、もっと他の方法を取ると思います。

だけど、当時のぼくにはそれしかできなかったんです。

明るくなる空をカーテン越しに見つめながら、静かな寝息を立てている次男の横顔を見つめながら、彼の体温を左胸に感じながら、ぼくは自分が今までとは違う存在になっていることに気がつきました。

自分のことよりもこの子の方が大切だと、心から感じられるようになっていたんです。

この子のためならなんでもできるだろうと。

自分が遊ぶ時間がないだとか。自分のキャリアがどうだとか。自分の欲しいものが買えないだとか。自分が食べたいものが食べられないだとか。

そんなことはどうでもよくなっていて、この子のためならなんだってできる。強くそう思えたんです。

それは自己犠牲なんてものではなくて、ものすごくあたりまえの感情でした。うたがう必要がないくらい自然で、そう思えない自分に戻れるとはとても思えないほどでした。

もちろん、自分のケアを一切しないわけにいかないので、自分の時間を夫婦でお互いに作ったりもしましたし、あまりに育児が辛くて逃げ出したくなることだってありました。

でも、朝焼けの青い光が差し込む小さな賃貸マンションの小さなリビングで、独身時代から使っていたボロボロのソファにやっと座り、ぼくの胸のなかでスースーと寝息を立てる次男を見つめたとき、心からの愛情が湧いてきたんです。

あぁ、この子のためならなんでもできる。

生まれてはじめて感じる心の底からの幸せに、じわじわと満たされたその瞬間。

それが、ぼくが”親”になった瞬間でした。







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