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「海外出張にはもう行きません」と言った日のこと。
「海外出張にはもう行きません」
ビルの最上階にある社員食堂で、ぼくは部長と向かい合っていた。
出されたコーヒーには手をつける気になれず、ただ黙って部長の顔を見つめ、ぼくはそう言った。
3ヶ月間の育休が明け、久しぶりに出社した日のことだった。
「ちょっと話そう」
上司である部長にそう言われ、ぼくらは社員食堂に向かった。
朝10時の社食はモーニングがギリギリ終わる直前で、ぼくらはホットコーヒーを頼んだ。
「これからどうする?前みたいに出張行ける?」
部長はいきなり本題を切り出してきた。こういう話になることはわかっていた。
ぼくの仕事は海外での生産現場と直結している。出張に行くのが仕事みたいなものだった。
どんなに短くても四日間、だいたい1週間は毎月出張に行っていた。
答えは決まっていた。迷いはもうなかった。ただ、会社からどういう反応をされるのかが怖かった。重要な仕事は任せられなくなるんじゃないかという不安もあった。
「海外出張にはもう行きません」
その答えは、ぼくが仕事よりも家庭を選んだ瞬間でもあったんだと思う。
◇
どんな仕事も、これをやらないと仕事にならないというものがありますよね。
営業は商談をしないといけないし、開発者は商品を企画しないといけない。そして生産管理者は生産現場の管理をしないといけない。
ぼくは呉服屋を辞めたあと、風に吹かれるようにいろんな仕事を経験しましたが、キャリアのほとんどは生産管理でした。
おれがおれが!と前に出ることが苦手な性格で、誰かを支える仕事の方が好きだったぼくは、自然とその仕事につくことが多かったんです。
スケジュール管理やコスト交渉、品質管理などやることはたくさんありますが、開発者や営業とすり合わせをしながら商品作りをしていくことは単純に楽しかったんです。
なかでも一番好きだったのは海外出張でした。
生産の現場で得られる知見は、空調の効いたオフィスにいては到底知ることができないものばかりで、学びが多い体験でした。
広告業界のはじっこで働いていたときは、約1ヶ月、中国の奥地の工場で真っ白なキャリーケースを作ったり(物理的に真っ白な成形は難しいのだけど、クライアントの横暴じゃなくて要望で、死ぬほど苦労して真っ白なキャリーケースを作った)
出荷を始めたにも関わらず、商品に欠陥があることがわかり、出荷を進めながら欠陥原因を突き止めてなんとか直したり、とある商品のパッケージの色が合わなくて、夜中の1時まで印刷機の前で色合わせをして、なんとか色を合わせてみんなで抱き合って喜んだり。
日本にいる人間には知るよしもないような苦悩とドラマが、生産現場には詰まっているんです。
仕事として心躍る体験が多く、学べるものも多い海外出張。
海外出張で成果を出した人間は出世のスピードが速く、そこに海外赴任が加わればさらに出世スピードは増していきます。
最初の出産が明けたときには、あたりまえのようにまた出張に行ったけれど、3人目が生まれ、3ヶ月間の育休を取り終えたぼくは、今までとは考え方が変わってしまっていたんです。
◇
海外出張に毎月行き、ある程度の成果を出すことによって、会社からいい評価をもらえていることはわかっていました。
だけど、それによって失っていたものがあったんです。
妻との会話は減り、子どもたちの面倒は妻にすべてお願いすることになり、ぼくと妻の育児スキルの差はみるみる開いていく。
妻が考えていることがわからなくなってしまう。
”(子どもたちを)怒りたくなくても怒ってしまう”
”妻にも嫌いな家事がある”
そんな気持ちを妻が抱いていたことを知ったのも、その感情をぼくが”自分ごと”として感じられるようになったのも、3カ月間の育休のおかげでした。
(こんなにもかけがいのない時間を、ぼくはいままで失い続けていたんだ)
育休が終わりを迎えたころには、そんなことを感じていました。
ただ、会社にたいして「海外出張はもう行かない」と宣言をすることは、かなり勇気のいることでした。
出世スピードが遅くなるかもしれない。嫌味を言われるかもしれない。辞めさせ部署(そんなものないかもだけど)に異動させられて、退職を強要されるかもしれない。
いろんな不安がありましたが、結果的にはそんな大きな変化はなかった気がしています。
社内で嫌味を言われることもなく、みんな協力してくれて代わりに出張に行ってくれるようになったり、辞めさせ部署なんてものはなかったですし。
ただ、出世スピードは少し遅くなったとは思います。
出張拒否宣言から1年が経つころには、ぼくが海外出張に行かないのは当たり前の事実になっていて、だれもなにも思わなくなったようです。
それから、もし誰かからなにか嫌味のようなことを言われても、今のぼくはあまり気にしないかもしれないとも思うんです。
仕事での自己実現よりも、自分の家庭の方が大切だなと今では感じているんです。
◇
「仕事でなにかしらの実績を作りたい、まわりから認められたい」という思いがないわけではないですが、家庭を犠牲にしてでもやることじゃないなって思うんです。
職場にはぼくの代わりはたくさんいるけど、家庭にはぼくの代わりはいないんですよね。
ぼくが転職しても、別な人間がなにごともなかったかのようにぼくのデスクに座るだけです。
でも、ぼくが家庭からいなくなってしまっては、そうはいかないですよね。
3か月の育休が明けて、職場に復帰したときに思ったんです。
ここにはぼくの代わりはいっぱいいるけど、家庭にはぼくの代わりはいない。
どっちが大切かは考えるまでもないなって。
だからぼくは、迷わず言うことができたんだと思います。
「海外出張にはもう行きません」と。
キャリアにおいて失われるものがあると分かっていても、そう答えることができたんだと思います。