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夫婦間にエロスは存在しない?エロスはどこから来てどこへ行くのか?
東京大学名誉教授の上野千鶴子さんの著作に最近ハマっています。
中でも、「女ぎらい ニッポンのミソジニー」は、女性と男性の性について考えるいいヒントになっています。
今回は、この本の中に出てきた「エロス」とは何なのか?夫婦間におけるセックスとは何なのか?について、こちらの方に書いてある内容をもとに考えてみたいと思います。
エロスとは夫婦間に存在するものではなかった
上野さんはこの中で、エロスとはもともと夫婦間のものではなかったといいます。
ギリシャではエロスとは同性間に存在するものであり、日本においては江戸時代、夫婦関係の外の関係をさしました。
このことからわかるように、夫婦関係に性やエロスを持ち込むこと、そしてそれらを持続させることは歴史的に見ても難しいということがわかります。
夫婦間においてエロスというものが存在しないということは、実際に夫婦関係は長く続けている方ならば実感として何となく分かるかと思います。
結婚前と結婚後、出産前と出産後、そして子供が大きくなるにつれて夫婦関係は大きく変わり、そしてまた、二人の間に横たわるエロスという関係も変わっていきます。
出会ったばかりの二人は、フェニルエチルアミンの効果でお互いに恋に落ち夢中になりますですが、その神経伝達物質の効果は3年程度で消えてしまうため、出会って3年経てば、どんな恋人同士でもやがて別れを迎えることになります。
3年と言うと、結婚してちょうど子供が生まれる頃という人も多いかと思います。
結婚から3年後、子供が生まれ、どうも今までとは、妻と自分との間にある空気が何か違うなと感じたことはありませんか?
僕もそうでした。子供ができる前とできた後では、二人の関係性というのは少しずつ少しずつ形を変えていきました。
出会ったばかりの恋人や、結婚して間もない二人ならば、その二人の間にはエロスという関係が存在するのでしょう。
そしてそれは、ホルモンと神経伝達物質によるタイムリミット付きの魔法なのです。
その恋の魔法が切れた時 、二人の間に あったエロスはなくなり、「夫婦」になるのでしょう。
妻とは「女中」と「娼婦」の合体なのか?
上野さんは本の中で、妻とは「娼婦」と「女中」の合体であるというようなことを書いています。
男にとって妻とは、セックスの対象であり、また、身の回りの世話をする女中でもあると。
この言葉を聞いて ドキッとしませんか?
自分は妻に対して何を求めているのか?
永続的なセックスの相手として見ているのか?
身の回りの家事をしてもらう女中のような存在として見ているのか?
妻とのセックスを求める僕ら男としては、今まで自分が妻をどのような存在として扱ってきたのか、それについて考える必要があることに気づかされます。
そして、これから妻とどのように接していけばいいのか?どのような存在として認識していけばいいのか?
僕らはもっとそのことについて深く考えるべきなのでしょう。
夫婦におけるセックスの目的とは?
上野さんが言うように、夫婦間におけるエロスというのは存在せず、エロスとは夫婦関係の外の関係のことを指すのだとすれば、夫婦間におけるセックスの目的とは一体何なのでしょう?
その答えの一つは体を使ったコミュニケーションであり、愛し愛されているという実感を求める欲求なのだと思います。
自分自身の欲望を満足させるためではなく、パートナーとの深い関係性を構築するためのコミュニケーションの一つ。
そうであるならば、夫婦間におけるセックスでは、男性側は自分自身の欲望に忠実に従うのではなく、パートナーの感情や感覚や意識というものにもっと気を使い、自分自身ではなく二人が心地よい関係を築けるようなセックスを構築していくべきなのかもしれません。
上野千鶴子さんが言う「妻とは娼婦と女中の合体である」という言葉は、確かに僕の心を揺さぶりましたが、僕としては、妻とはたった一人のこの世界に存在するパートナーであり、これからの人生を一緒に楽しく生きていく大切な存在であると思っています。
ミソジニー(女性蔑視)を学ぶということは、妻を今までとは異なる次元から愛するということを実現させるためのヒントになると感じています。
それではまた。
今日の日記
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