「私とセックスワーカーのなにが違うのか?」と、妻が思うとき。
「主婦とセックスワーカーはなにが違うのか?」
松井博さんが書かれたこの記事を読み、いろいろと考えさせられました。
ぼくは7歳、7歳、3歳の3人の子どもたちを育てる父親ですが、育児というのは金銭に置き換えられない心の充足感を与えてくれることを、よく感じています。
まばたきのような一瞬のなかに、かけがいのない喜びがそこにあることを感じるんですね。
子どもたちってどんどん大きくなっていきますよね。Tシャツはすぐにサイズアウトになり、自転車のサイズもどんどん大きくなっていきます。
小学校に入ったばかりの頃は、黄色い通学帽がまだブカブカだったのに、あれから1年半経ったいまでは、ちょうどいいサイズになっています。
いつの間にか「ありがとう」と言えるようになり、まだ3歳の弟と一緒にお風呂に入って、体を洗ってくれることもある。
この子たちがすくすくと成長していくことに、単純に喜びを感じるんです。
でも、日々の生活が大変なことも事実なんです。
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毎日宿題のチェックをして、学校での話を聞いてあげ、食事の準備をし、食べさせて片づけて、寝かしつけをし、子どもたちが寝たあとにリビングの掃除をし、洗濯機を回す。
1日の終わりには、ぼくと妻は(夕方の家事比率の高い妻は余計に)疲れ切っているんです。
毎日が台風のように過ぎ去っていき、ふと一瞬、静かな時間のなかで子どもたちの成長を感じ、またぼくらは台風のなかへと戻っていく。
苦しみが99%、喜びが1%くらいです。
ただ、その喜びの度合いがとっても高いんですよね。
だからこそ、育児にはなんの金銭的報酬がないにも関わらず、続けていけるんだと思うんです。
その苦しみを吹き飛ばすほどの喜びを運んできてくれるからです。
ですが、その喜びを感じられないほど、疲弊しきっている夫婦がいることも事実です。
ぼくに届く夫婦関係のご相談のなかで、夫の家事育児への参加度合いが低いために、妻が疲れ切っており、妻が日常生活に喜びを見いだせていないというケースをよく聞きます。
そのため、夫を嫌悪するようになったり、外に恋愛相手を求めてしまうこともあります。
お互いに支え合うパートナーが存在しない親業というのは、とてつもない苦痛なのだと思います。
さらに、夫が家事育児に積極的でなく、妻の心のケアをしてくれないにも関わらず、性交渉を求めてくる場合は、まるで性的消費物として扱われているのではないかと感じることもあるようです。
まるで、夫が自分をセックスワーカーのように思っているんじゃないかという疑念すら生まれてくるほどに。
夫自身はさすがにそこまで思っていないと思いますが、それでも、妻にそう思われせてしまうものがあることは事実なのだと思います。
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「セックスワーカーと主婦はなにが違うのか?」
この問いを目にした、夫からのケアが少ない女性の心には、得体の知れない冷たいものが走ったと思います。
夫からの支えがなく、仕事と家事と育児に翻弄される毎日。
そして、疲れ果てた夜に夫は体を求めてくる。
夫から見たわたしは、セックスワーカーとなにが違うんだろうか?
わたしのことをセックスができる家政婦と思っているんじゃないだろうか?
夫目線で言うとそんなことはないのですが、妻の視点に立つとそんな疑問が浮かんでくるんです。
子どもたちを育てるためには多くの犠牲が必要になりますますね。
自分の時間なんてほとんどなく、通り過ぎることのない台風の中にいるようなものです。
その犠牲はお互いに払うはずなのに。
ふたりの家庭のはずなのに。
ふたりの子どものはずなのに。
まるで、ひとりだけ犠牲をしいられているかのよう。
子育てにはかけがいのない喜びがあるとしても、この苦悩と比べるとあまりにも釣り合わない。
わたしとセックスワーカーは、いったいなにが違うんだろう?
思わずそう自問してしまうような深い孤独感と絶望を感じる女性もいるんじゃないかと思うんです。
ぼくも妻から性の消費物として見られているような気がすると言われたことがあります。
ぼく自身はそういった気持ちは持っていなかったのですが、そう思わせてしまったなにかが、ぼくの言動のなかにあったのだと思います。
自分の家庭に対する行動が、妻に対する言動が、妻の目にはどのように映っているのか?
ぼくらは、そこにもう少し気を配るべきなのかもしれません。