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モラハラ加害者を責めるだけでは変わらない。真の変容プロセスとは?

「モラハラやDVをする人間は変われるのか?」

そんな疑問を解き明かしたくて、モラハラDV加害者当事者会GADHA代表の中川瑛さんにポッドキャストインタビューをさせていただきました。

この記事はその際の文字起こしです。かなり長い(15,000字)ので、聴く方が頭に入る人はポッドキャストかVoicy(音声)で、視る方がいい人はSpotifyかYouTube(動画)でご視聴ください。

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-夫婦関係学ラジオ-
#2−22 モラハラ加害者の変容プロセスとは?|ゲスト:GADHA代表 中川瑛さん

アツ
こんにちは、夫婦関係学ラジオ パーソナリティのアツです。今回は、「人も社会も学び変われると信じられる世界」を目指す株式会社変容資源研究所代表の中川瑛さんにお越しいただきました。

アツ
中川さんは加害者変容理論をもとに、書籍や漫画原作の執筆、加害当事者会の運営、企業や自治体との連携などを行っています。代表的な加害者当事者会として、モラハラDV加害者のためのコミュニティGADHAが、代表的な書籍は「モラハラ夫は変わるのか 99%離婚」「ハラスメントが起きない職場の作り方」などがあります。よろしくお願いします。

中川瑛さん
よろしくお願いいたします。

アツ
僕このGADHAのことを知ったのが、他の女性の方がゲストに来ていただいたときがあって、その方が夫のDVチックな言動に困っていて、そのときに「あなたのやってることは考えなんですよ」ってことをわからせるためにGADHAのホームページの本を読んだっておっしゃってたんですよ。そのときに初めて知って、加害者って変われるのかっていう、すごいびっくりしたんですよ。ホームページを見ると加害者の変容をサポートしてるとあって、一体どうやって変われるのかなっていうのをちょっと詳しくお聞きしていきたいなって思うんですね。

アツ
その前にすごく気になってるんですけど、この株式会社変容資源研究所とは一体何をしてるところですか?

中川瑛さん
ありがとうございます。僕が元々8年9年ぐらいやってる会社があってその社名を変更したっていうそういう前提はあるんですけれど。会社の社名を変えた理由並びにやってることとしては、変容するための資源、リソースっていうものをこの社会に増やしていきたいなっていうことを思ってやってるんですけれど。

アツ
そういう意味が。

中川瑛さん
はい、どっちかというとGADHAが先にあって、当事者会からやってる中でこういう場所って本当に世の中に全然ない。加害者ってなっちゃってからどうしたらいいのかとか、予防とか、そういう所から逃げましょう離れましょうってなるんですけど、そういう学びの場を作る必要があるねということで、その変容資源を研究し実装するためのものとして会社の名前を変えてやってるというところですね。

アツ
なるほど、ちなみにいきなり聞いちゃうんですけど、DVとかモラハラの加害者は変われるものなのですか。

中川瑛さん
そうですね全員とかその瞬間に変われるかとするわけではないですけども、人は学び変わるということ自体はできると思います。それは別にモラハラやDVに限らずいろんなことがそうかなと思ってます。

アツ
モラハラやDVをする人っていうのは、一般的なイメージだと元々そういう気質があるだとか、自分のやってることをなかなか認められなかったりとかする部分があるんじゃないかなって思うんですけど。どうやって変えていくんですか。

中川瑛さん
ありがとうございます。そもそも、人が学び変わるとはどのようなことかということを考える必要があると思っています。モラハラ加害者が変われるのかという問いの前に、変わるってなんだろうと思ったときに、例えば、職場で仕事をしてる中で、この仕事の業績は結構上がってきて「君、今度からリーダーになって部下を育てながらチームでやってってね。マネージャー頑張ってね」とかって言われてやってみたとします。

その時に、自分とやり方が違う部下がいてうまく成果が上がらなくて困ったなと、そこで本を読んでみて、何かをやって言動が変わって、その部下というかメンバーに対するコミュニケーションの関わり方が変わったとすると、それって変化と呼ぶのかどうかって話があると思うんですけど、これはアツさん的には学び変わることに含まれると思います?

アツ
変わったんじゃないですかね。知識を得て、自分の行動が変わった。行動は変わってるかなと思います。根本的な人間的な部分はわかんないですけど。

中川瑛さん
そうですよね。多分、人が変わったかどうかって考えるときにポイントになるのが、言動の変化を持って人が変わったとみなすのか、内面的な価値観や信念の変化まで含めて人が変わったと捉えるのかという二つの定義測定のための手段がありうると一般に思われています。

ここでポイントになるのは、信念の変化は究極的には外形的には評価できないという話があると思うんですね。

アツ
信念の評価は評価できない。それは目に見えないから?

中川瑛さん
おっしゃる通りです。つまり人は人の性格っていうものをどのように理解してるかっていうと、ある状況と類似する状況、AとA′があったときに、そのときにもXという行動を取り、A′のときにもXという行動をとるという人はXという状況、そのような類似した状況の中で、同じような行動をとる人、それを持って、人はこの人はこういう人だと理解しているってことですよね。

アツ
行動から評価しますね。

中川瑛さん
ですよね。さっきの話で言うと、上司になったったという状況の中で最初はXという行動を取ったけれども、別の場面においてはYという行動を取った。部下に対する行動が変わった。それで人が変わったとみなす。

でも、これが次に同じような場面でまた昔みたいなコミュニケーションとった取ったらやっぱ変わってなかったんじゃないですかと。

アツ
確かに。

中川瑛さん
信念や価値観の変化って、これを15年ぐらいずっとやってるとあの人って本当に変わったんだなって思うものなのかなと思うんですよね。

アツ
毎回の行動が変わっていれば心から変わったんだなと評価するかもしれないですね。

中川瑛さん
そうですよね。あとはもう1個別のパターンとしては、だいぶ違う状況Bにおいてもそのような行動を取るのかっていう話があって、例えば職場の人には優しい人が家庭においては優しくないってことがあったときに、どっちがこの人の本性なんだろうみたいな話があったときにはちょっと難しいですよね。

評価が職場では変わったけど家庭では変わってなかったら、この人本当に変わったのかとなるんだけど、それがどちらも同じ思考に基づいて言動が変わっていくとこの人本当に変わったんだなと思う。

アツ
そうですね。

中川瑛さん
ということで、導き出される加害者変容の意味というのは、その加害的な言動をある場面Aと類似するA′で違う行動をとるということが一つの局面。もう一つの局面は、例えば子供との関わり方、職場での関わり方、そして家庭での関わり方、あるいはセルフケアなど、多様な局面の中でその元々の価値観ではやらないであろう言動を継続的に取り続けていくことによって、人が変わったと周りの人は思う。

アツ
うん。信念が変わってるってことですよね。例えば家でモラハラしてる男性だったとしたら、会社の中でも部下に対して昔モラハラをしてたかもしれないんだけど、そうじゃなくなったっていう。いい上司やいいパパになった。

友人関係でも、なんかあいつ変わったねみたいな感じになったとしたら、その人は信念から変容したということですか。

中川瑛さん
そうですね。そうとも言えるし、私達はそのようなことを信念や価値観ごと変わったと判断しているにすぎなくて、見てるのはあくまで言動だけだということですね。

ただ信念は測定できず本人もわからないので、加害者変容ができるかというと明らかに可能だと思います。なぜならば言動を変えること自体は誰もができることだから。信念が変わるかどうかっていうのは結局その人を中長期的に見続けることでしか判断ができないけれども、中長期的に言動が変わってる人もいっぱいいると思いますし、そういう人を見て、加害者変容できるねと思う人もいると思います。

アツ
加害者の方をたくさん見てこられたと思うんですけど、信念も変わったと感じたことはありますか?

中川瑛さん
それはもういっぱいあります。ただ、あくまでお前から見たらそうだろって言われるだけなので、説明というか評価はできないですよね。

アツ
中川さんがその人たちの行動を見た上で、信念も変わったのかなって感じだっていう。

中川瑛さん
おっしゃる通りです。

アツ
なるほどなるほど

中川瑛さん
もちろんそれの具体例はいろいろあって、僕が今でも覚えてるのは元々3食毎日ご飯を食べるものだと思っていた人が加害者変容を深めていく中で、ある時、朝そんなにお腹減ってないなと思って。朝もしっかり食べるものと思ってこの人生ずっと生きてきたんだけれども、今日はコーヒーだけにしてみたら午前中ちょっと体が楽でしたって話を聞いたときに僕は死ぬほど感動しました。

つまりそれって、これまでの人生ずっとお腹がすいてるかどうかっていう感覚すら自分でちゃんとキャッチできずに、自分をいたわるということができてこなかった。「3食食べるべきである。それが普通で当たり前だ」と思ってる人が、それが緩んできて自分の感覚を尊重できるようなったってことが僕すごいなと思っていて。

同時にこれができないが人の感覚や感性を大切にできるわけがないんですよね。だって自分がお腹減ってるかどうかすらわからないのに、人の痛みや悲しみといった目に見えない感情をキャッチしたり、それを知ろうと思ったりケアをしようと思ったりできないので。

アツ
他者へのケアのためには、自分自身へのそういった気づきが必要になる?

中川瑛さん
ああ、もう超大事ですね。加害者変容の要の一つはそこだと思います。

アツ
その加害者変容をステップバイステップで説明するとしたら、どういった順序になります?

中川瑛さん
いくつかバリエーションはあるんですけれども、一番有り得るパターンというのは、まずは自分が何に傷ついてきたのかってことをちゃんと認められるところから始まると思いますね。

アツ
自分自身の傷つきの体験?

中川瑛さん
おっしゃる通りです。例えばもうGADHAの場合で言うと、離婚や別居の危機になったときって、加害者の方でカウンセリングに行く人が本当にいっぱいいるんですよ。

アツ
加害者がカウンセリングに?

中川瑛さん
そうです。なぜなら、自分なりに当たり前に一生懸命生きてきたわけです。例えば男はお金を稼ぐものであり大黒柱だからこそ、家事や育児は妻がやるものと思って生きてきて、仕事も頑張ってやってきた。

ある時、子供が家からいなくなって孤独になったときに、自分が相手を傷つけてきたなんていうことにまず思い至らなくて。

「こんなに頑張ってきたのに一体なんなんだ?」
「なんでこんなふうになっちゃったんだろう?」

という葛藤や混乱、そしてそれに紐づいた形で傷つきや痛みみたいなものが発生する。

被害者の方からすれば、そのときの加害者の傷つきの感情は「いやいや、DVして何を言ってんの?」っていう感じで、なに?カウンセリング?みたいな。「カウンセリングに行くお金あっていいね」みたいな話ですよね。

アツ
そうですね。傷ついているのはこっちだぞと。世間的にそう見えますね。

中川瑛さん
そうなんです。でも、そこにある混乱や傷つきを無視して、「いやいやそれはあなたがDV加害者ですよね?悪いことだから周りの人いなくなる当然です。あなたの人生間違ってました。変わった方がいいですよ。」と、上から目線の正論でやっつけてやろうと思えば、もう本当にいくらでもやっつけるような状況なんです。

でもそんなときにこそ、まず痛みや悲しみに向き合うことがすごく大事な加害者変容のステップになるだろうと僕自身は思っています。

アツ
そのときの傷つきの体験にフォーカスするんですか?妻が出ていったとか、そのときの自分の気持ちをちゃんと感じようってことですか?

中川瑛さん
まずそれがすごく大事だと思います。そもそも加害とはなにかという論点があると思うんですけど、それを仮に、人の感情や大切にしてるものを無視したり、軽んじたり、自分の方が正しいとか、適切だとか、それが普通だというふうに押し付ける行為を、モラハラDVだと一旦仮に置いておきます。

そういうふうにずっと生きてきた人って、自分の感情や感覚をそんなに大事にされてこなかったってことも結構多くて。

なかには、「自分はDV加害者だから悲しいんじゃいけないってわかってるんだけれども、孤独な夜とか1人でいるとすごく苦しいんです」みたいなことがあったときにも、その感情はいいも悪いもないっていうか、そこにあって、悲しむべきじゃないとか、苦しむべきじゃないっていう考え方が実はそもそもモラハラDV的な考え方のままなんですね。その信念構造が変わってない。

アツ
なるほどなるほど。

中川瑛さん
ここを緩めていくってことがすごい大事なとこなんです。

アツ
こうすべきとか、ああすべきとかという概念にみずから縛られている?

中川瑛さん
もうその通りです。

アツ
妻や子供や大事な人に対してだけじゃなくて、自分もがんじがらめにしている?

中川瑛さん
そういう人がたくさんいらっしゃると思いますね。だからこそ、できていない人を見ると、「甘えてる」とか、「ずるい」と思う。

例えば、自分は仕事ですごい頑張ってるのに、家事育児で弱音を吐いてる人を見ると「いやいや、俺は弱音吐かないでこんなに頑張ってるのに、なに弱音とか吐いてるの?」「愚痴をこぼすなんて役割をちゃんと果たしてない。俺はこんなに頑張ってるのに」となると。

自分も相手も苦しめるような価値観の中に生きてしまっているってことはよくあると思います。

アツ
なるほどそれがその加害者のファーストステップであり特徴の一つってことですね。

中川瑛さん
そうなんだと思います。

アツ
次はどういったステップになりますか?

中川瑛さん
ここから先がいろんなパターンがあるんですけど、自分の傷つきや痛みや悲しみというのをまず情動調律する。そこにそういう感情や感覚があるよねということを認められるようにする。

そうやって、痛み、傷つき、悲しみっていうのがわかってくると、それらは評価したり、良いか悪いかと言われることじゃなくて、こういうふうにまずあるってことを認められることが大事なんだなってこともわかってくる。

すると、自分がそれをやってこなかったことを知れるんです。パートナーとかお子さんに対してやってたか?その人たちの不満や悲しみや痛みに対して「こんなんじゃ駄目だ」とか「普通こんくらいできる」とか「そうすべきだ」とか「なんで弱音吐いてるんだ」とかって、もし自分が言ってきたんだとすると、それでまず1個わかるわけですよね。「ああ、これを人にやってこなかったな」と。

多くの場合よかれと思って、「もっと頑張れ」とか「社会はもっと厳しいんだ」とかって言ってきたけど、違ったかもみたいな。

そこでどうすればよかったんだろうっていうふうに話が進んでいったときに、その加害的な言動じゃなくてケア的な言動って何なんだろうってことをようやく考えられる状態になるんです。

この辺のステップをすっ飛ばしちゃって、いきなり「あなたはDV加害者で良くなかったです。これ、これ、これはハラスメントな考えです」って言われても、そうじゃないコミュニケーションって何?とか、そのコミュニケーションを学びたいって思う動機づけがないんです。

アツ
なるほど。

中川瑛さん
職場のハラスメントだとわかりやすいです。「あなたはパワハラしてますよ」って言われても、どこからどこまでパワハラだったのかよくわかんない。

ハラスメントじゃないマネジメントも一緒に教えてくれないと普通にわからないですし、そんな上から目線で正しい風に言われても、学びたいって思わない。どっちかって言うと「こんなぐらいでハラスメントなんてうるさいな」と、否認してしまうってことがあるのかなと。

アツ
確かに動機は確かに生まれにくいですね

中川瑛さん
そうなんです。

アツ
自分が傷つきの体験をしたことに気がついて、妻や子供に対しても同じようなことをしてたんだなっていうことに気がつくことで、何とかしたいって思うようになるんですか?

中川瑛さん
そういうパターンもあると思いますね。あとは親が自分にしてきたことも加害だったなと。「自分はちょっと傷ついてたんだな」っていうふうに気づけるとか。部活とか職場とか結構きつかったなと。

そのときそのとき、やってよかったって思ってたり感謝していることもあるんですけど、別にそれと傷ついてきたことって両立するので、やっぱあれってちょっと嫌だったなみたいな、そういうことにどんどん気づいていくっていうことが多いですね。

アツ
なるほど。その次はどういったステップになるんですか。

中川瑛さん
次は試行錯誤というフェーズに移るんですけれども。つまりケア的なものが何なのかってことがある程度わかってくると、わかってるけどできないっていう、これは英語でもプログラミングでもスポーツでも何でもそうだと思うんですけど。

アツ
ケア的なものとはなんですか?

中川瑛さん
それは感性とか感情、相手が大切にしていることを、そこにそのままあるってことをまず認めるってことから始まる。それが1個。ちょっと長くなっちゃうのではしょりますけど、二つ目が、共同解釈です。

解釈を一緒に作っていくのですが、例えば良い父親とは何かっていうことを、1人がその人の中に持ってることってよくあると思うんですね。「これがいい父親なんだ」と。

でも一緒に暮らしている人にとって、「いい父親とはなにか」ってことは、実は共有されてないかもしれない。共有するだけじゃ足りなくて、人ってみんな違うことを考えてるので、父親っていう概念に対して、「いい父親ってなんだろう?」ってことを、一緒に生きていきたい人と一緒に作ってくことが大事。

「いい父親とは?」という問いに対して、誰も答えを持ってない。なぜなら、関わる人によってそれが変わるから。「いい父親とは何か?」っていうのは、関係の中にあるから。関係のなかで「いい父親とは?」というものを作っていく。

だけど、そもそも一緒に話したいと思える信頼関係をどのように構築されるかっていうのがあって。「いい父親になりたい」って言っても相手が「いやもう全然いいです」みたいになっちゃってたらできないわけです。

相手が素直に思ってることを共有できなければ、結局、話が忖度になっちゃって、「あなたがいい父親です」みたいに言わせて、「ああ、自分はいい父親だな」と思うことって簡単なわけです。

アツ
確かに。

中川瑛さん
素直に思ってることを共有できる信頼関係の構築があって初めて、共同解釈が可能になるんですけど。その関係性の構築ってのが圧倒的に情動調律から始まるので、共同解釈って結構難しいので、まずはとにかく情動調律をしていこうっていうのがケアの基本。

アツ
情動調律が一番難しそうですね。

中川瑛さん
めちゃくちゃ難しいんです。僕、本当に自分が加害者ってことを自覚して、加害とかケアという観念を理解していく中で試行錯誤するわけなんですけど、もう最初30分ぐらい黙っちゃうとかってあって。

アツ
それは奥さんとの会話で?

中川瑛さん
そうです。妻は何を考えて、何を大事にして、どういうことで傷つくんだろうと。もうパンクですね。考えたことがないから。フリーズしちゃうみたいなことがあったりもしましたね。

難しいんですけどそれをやっていく中で、そもそも情動調律するぞと思ってしたことが情動調律になってないってことがめっちゃいっぱいあって。

例えば、優しさのつもりで投げかけた言葉が「普通に傷つくからやめてほしい」とか、「上から目線のアドバイスいらない」とかあるわけじゃないですか。失敗するんですよね。

そこで情動調律とは何かとの学習と、パートナーとできるとは限らないですけど他者との考えの中で試行錯誤を練習していった。

アツ
どういう練習をするんですか?

中川瑛さん
結局ケアを試すってことだけですね。例えば……。

アツ
例えば、妻が家事とか育児とかでいろいろ悩んでてやってほしいと思ってると、だけど夫は「ちょっと忙しいんだから、そんな早く帰ってこれないよ。家のこと全部なんてできないよ!」ってなってるとしたら、その場における情動調律というのは?

中川瑛さん
情動調律というレベルでとどめておくのであれば、まずは相手が不満を感じていること、あるいはもっとその奥にある孤独感、子育てという大変な責任を伴うことを自分1人でやっているという恐怖。これがうまくいかなかったとしたら私のせいになってしまうのではないかという不安、そういったものがあるっていうことをまず丁寧に理解するっていうところ。これが情動調律の一つの例。

でも、別にパートナーがそんなことを全然望んでいないかもしれない。その場合は情動調律の失敗になるわけですけど。

これはつまり、正しい情動調律がないってことですね。あるのはただ関係性だけ。

アツ
相手が望んでることをするのであれば情動調律になるんですか?

中川瑛さん
ちょっとそれは別ですね。望んでいることというよりは、情動調律レベルでいうと、それはケアに近くなると思います。ケアっていうのが相手のニーズを知ろうとしてケアしようとして、間違ってたら学び直すプロセスなんですけど、これが相手にとって嬉しいのかなと思ってケアをしてみて、ケアの中に情動調律もあるって感じなんですけど。

実際にケアをしてみて、「いや全然そんなこと望んでない」と言われて、そこで「何だよ!」ってならないで、ニーズを理解し間違えていたんだなと、「ケアの仕方を間違ってたんだな」っていうふうに学び直していくっていうこのプロセスを踏んでいくことが大事だと思います。

アツ
それが情動調律ですか?

中川瑛さん
情動調律は前の方ですね。例えば、家事をしてほしいっていうのが妻のニーズで、なんらかの家事をやることがケア的な行動だとすると、情動調律は、「そもそもなぜ家事をしてほしいと相手が思ってるのか」っていう相手の価値観や信念を探りにいきながら、「それ(相手の価値観や信念)がそこにある」ってことを認める言動になると思います。

アツ
なるほど。それを日常生活の中でトレーニングしていく?

中川瑛さん
そうですね。

アツ
相手のことをそこまで考えようって思うのって、確かに動機がないとできないと思うんですよ。だから一番最初に動機があったと思うんですけど、動機があって、相手の考えやニーズとか、その言動の背景にある孤独感とか、そういったところまで思いを寄せていく。

それができたら次はどうなるんですか?

中川瑛さん
それができたら、もうほぼ加害者変容としてはかなりのとこまでいってると思います。その後に共同解釈っていうものが発生してきて、これはあんまり取り扱ってないのは、うんめっちゃ難しいっていうのっていうのと、情動調律ができるんであればある程度共同解釈できるようになる部分があるからですね。例えば家事の分担をどうするかっていう話し合いは、共同解釈的な営みになると思います

アツ
共同解釈についてもう1回教えてもらいたいんですけど、それは例えば「家庭に家事があります。夫と妻がいます」と。それで二人にとって納得できる家事分担をするっていうのが共同解釈なんですか?

中川瑛さん
そういうふうに言えると思いますね。それを伴いながらやる。それはケアでもあると思うんですけど、概念としてはそういう事例もあると思います。

アツ
共同解釈について、もうちょっと教えてもらっていいですか?

中川瑛さん
そうですね、ちょっとこれを話すと、もっといろんな話をしなきゃいけなくなるかもしれないですけど、そもそも人間っていうのは僕は解釈する生き物だというふうに思っていて。嬉しいとか悲しいとか原始的なものもそうだし、暑いとか寒いとかもそうだと思うんです。それって解釈を伴っている。

つまり、人間が傷ついたり困ったりするのは他者と解釈が不一致のときです。

それを一緒に構築していくプロセスを踏むことで、私とあなたっていうものが安定してくる。暴力の本質っていうのは相手の解釈を踏みにじることなんです。「私はこれが嫌だ」って言われたときに、「いや、それは嫌だと思うべきではない」と解釈強要をする。

「これを喜ぶべきだ」とか「ありがたがるべきだ」っていう相手の解釈を押し付けて上書きするような行為を会社強要と呼び、これを加害の本質だと捉えてるんですけど、こうやって情動調律が欠如した状態でもあるし、情動調律した上で、私達にとっていい家事分担って何だろうみたいなことを考えてないという点で共同解釈もできてない。

というわけなんですけど、話し合った上で、お互いのニーズが完璧に満たされることってないので、人間がみんな違う以上は。

アツ
例えば、家事とか育児っていうのが家の中にタスクとして存在して、それに対する捉え方が、2人とも同じになるっていうことですか?共同解釈とは?

中川瑛さん
おっしゃる通りです。

アツ
例えば、僕だったら子供3人いるんですけど、下の子が6歳になって大きくなってきたからそんなに手がかからないよねと。だから「俺ちょっと外(に遊びに)行ってもいいよねって僕が思ってるとして、だけど妻は「ちょっと待ってくれよと。6歳って来年小学校だとめっちゃ忙しくなるよ。上の子もいるし大変なんだよ」っていうのは解釈がずれている?

中川瑛さん
まさにそうです。

アツ
そこに対する解釈を2人がすり合わせていくというか、同じ解釈に合わせていく作業が共同解釈?

中川瑛さん
まさしくおっしゃる通りです。

アツ
考え方って人によって違うから、なかなか共同にならないい気もしますよね。

中川瑛さん
おっしゃる通りですね。解釈一致と共同解釈はちょっと別かもしれないですね。解釈が一致するっていう状況を、それはほとんどあり得ないんだけれども目指して一緒に考え続けていくっていうことが、共同解釈だといえると思います。つまり動的な営み。普通の言葉で言うと、対話とか話し合いに近いと思うんですけど。

アツ
わかろうとする姿勢みたいな。

中川瑛さん
おっしゃる通りです。そうです。

アツ
なるほど、それが大事だと。それができるようになると変容したと言えるんじゃないかと?

中川瑛さん
おっしゃる通りです。加害の本質をケアの欠如、ケアをしていない状態を加害とみなすのであれば、情動調律ができ、共同解釈ができるようになってくると、それを加害者変容したと言うことが可能かもしれないです。

アツ
なるほど、これができるようになればモラハラとかDに困る人いなくなると思うんですけど、何割ぐらいの人ができるようになるんですか?

中川瑛さん
数字の測定などあまりやってないのでしっかりしたことは言えないんですけれど、割と能力なんですよね。訓練できるもの。技術に近い。

アツ
スキルなんですね。

中川瑛さん
そうです。問題は、このスキルを必要だと思ってない人が多いってことなんだと思うんですよ。

アツ
日常生活において?

中川瑛さん
そうです、そうです。例えば社会的な背景も確実にあるので、例えば男女の役割分担がはっきりしている社会ほど対話が不要なんですけど。

アツ
役割がはっきりしてるほど対話が不要?

中川瑛さん
そうです。役割が決まっているからですね。つまり良い夫とは何か、家事をするのは誰か、そういった本来であれば対話の対象となりうるような社会的なことがカチカチと決まってる社会では対応の能力って不要なんです。むしろ無駄な時間になっちゃうんですね。

アツ
(役割が)定められているから話し合う必要がない?

中川瑛さん
おっしゃる通りです。あらゆる宗教もそうだと思いますけど、儒教とか典型的ですけど礼儀とかって、やっぱりはっきりしてるほど考えなくていいですよね。

相手が目上かどうかというのが、バッチが多いかどうか。バッチが多かったらこの席はここに座っていただく。料理の品数が違う云々とか。日常のあらゆる動作の中にそういう礼儀みたいなものが厳格に組み込まれているほど、対話が不要な社会になると思います。

一方で現代日本もそうだと思いますけれども、いろんなことがもっと多様で包摂できる社会の方がいいよねってふうになってくると、必然的にあらゆることがまだ決まっていないことになっていくと。

なんなら変わっていくものになっていくと、話し合う力が必要になってくる。ということだから、今身に着けてない人が多いっていうのは、身につけなくていい社会を生きてきた人たちでもあるんだと思うんですよね。

モラハラやDVっていうものが、単独で概念として存在してるのではなくて、社会の中で何を暴力と捉えるのかという変化に伴って、DVやハラスメントという概念が出てきたし、おそらく今後もDVハラスメントの概念は変わっていくのだろうとも思います。

アツ
時代の変化によって変わっていく?

中川瑛さん
おっしゃる通りです。

アツ
例えば昭和の雷親父みたいな時代だったら、「いや、あれ普通だったし」となる?

中川瑛さん
そうです。おっしゃる通り。

アツ
昭和が終わって、平成も終わって、令和になって、「いや普通じゃないし」って変わってきた。これが30年50年とか変わってくると、またモラハラの定義も変わってくるってことですね?

中川瑛さん
間違いなくそうだと思います。モラハラというか暴力の定義があるかと思いますね。

アツ
なるほど。

中川瑛さん
それはもうちょっと正確に言うと、暴力の定義が変わるということの意味は、人間とはどのような存在なのかっていうものの理解の変化にも多分繋がっていると思います。

アツ
なるほど。ちょっとお聞きしたかったのが、自分のニーズを掘り起こしたり、自分のパートナーのニーズを探ろうとするのって、発達障害を抱えてる人でもできるんですか?

中川瑛さん
そうですね。いろんな論点がありますけど、一つは発達障害を何だと捉えるかっていう話があると思っていて、ちょっとこれも話し出すと止まらなくなりますけど、僕イギリスで研究してたものの一つが医療社会学なんですけど、例えばADHDってもうめちゃくちゃ診断数増え続けてるんです。

アツ
そうなんですね。

中川瑛さん
製薬会社からすると、メンタルヘルスの薬ってめちゃくちゃ利益率高いので、そういう会社が予算を出して研究所に論文を書いてもらって、発達障害が増えているっていうような、そのお金の動きもあったりするんですけど。

問題だとされ、ずっとこの社会で行われている精神科心療内科系の病や障害の定義の問題、特に薬で解決できると考える場合は製薬業界のインセンティブっていうものがあるので、そもそもその政治的な側面もいろいろあると思うんですけど。そういう前提で述べると、ある程度できるようになると思います。

アツ
例えば僕インタビューしした方でASDって判定された方がいるんですね。共感ができないと、わかんないと。そこで自分なりの定義で共感をブレークダウンして、アクションまで起こして実行してるんですよ。

GADHAにいらっしゃってる方でもASDの方もいらっしゃるかなって思うんですよ。どうやって共感というか、妻の解釈を想像したりとか、わかったりとかってできるんですか?

中川瑛さん
ありがとうございます。そもそも、僕がASDとADHD診断受けてるので普通に当事者なんですけど、今の話と同じだと思いますけど。うん、でもASDって何って話なんですけど。

共感が苦手と考えるならば、おそらく三つぐらいのステップが必要だと思います。一つ目は動機付けの話があって、そもそもケアっていうものをできないと人間は孤独になるという話をまず理解する必要があって。

孤独になって困らない人は別にそれでいいと思いますし、そもそもおそらくパートナーシップってのは必ずしもそんなに必要ない人も結構いると思います。

一時期みんな結婚する社会があったので、別にそんなにパートナーシップや子供に対する愛情が湧かない人間も結婚する社会だったっていうことは、普通にみんなにとってハッピーだったんじゃないんだろうなって、割と素朴に思ってるし。

実際、GADHAにいるメンバーの方にもそういう人はいらっしゃいます。自分がこういう人間だってことは、そもそも結婚するべきじゃなかったんだなって。

自分みたいな人の気持ちもわからないし、子供への愛着みたいなのをそんなに湧かない人間が子供を持っちゃったこと自体が間違いだったって言ってる人もいて。それをある意味でそうなんじゃないかなっていうか、その人にとってはそういう見方があるんだなっていうところで。

つまりまずインセンティブの問題がある。二つ目の問題が、問題というか論点が、何をすればいいのかっていうこと。知識を得るっていうこと。

僕自身も元々人に優しくしなさいとかって全然意味がよくわからない。「優しくするとはどのようなことなのか」っていう定義を求めても、あんまり教えてもらえないので。

アツ
優しいとは何なのかっていうこと?

中川瑛さん
そうです。「もっと優しくすること」「人に優しくすること」「人の気持ちを考えること」って言われてもわからない。

アツ
なるほど。

中川瑛さん
わかる人はわかるみたいなんですけど、それはわかるというよりも単に共通性が高いってことだと思いますけどね。こういうことで傷つくってことが多数派なら、それが普通に優しさになり、自分はこれで傷つかないのになあって思うことが多ければ、自分の思いのままには人に優しくできないっていうだけのことで。

今は発達障害じゃなくて神経発達症とかって言うと思うんですけど、つまり多様性のものの一つなんだって理解ですね。多数派と少数派の違いみたいなことがあると思うんですけど。そういうのに似てるのかなと思うところもあります。

アツ
共感ができないと言われるASDの方がどうやって共感できるんなってるかっていうと、さっきおっしゃったように、また知識を得ることが大事?

中川瑛さん
ということになりますね。

アツ
共感とは何なのかとか、優しいとはつまりどういうことなのかっていうのを知っていくってことですか?

中川瑛さん
おっしゃる通りですね

アツ
なるほど。

中川瑛さん
その背景にあるのは、それがないとそもそも関係が終了してしまうけどいいですかっていう論点があるんだと思います。これは結婚したり子供がいたらちょっとまたちょっと別の論点が発生しますけど、一旦そんな感じにインセンティブの話と知識の話と、あとはその試行錯誤をサポートするコミュニティですね。これが大事だと思います。

それから、これすごい大事だなって思うのは、やっぱりモラハラDVの被害者の方がサポートするのって心理的にすごい負荷がかかると思うんですね。

アツ
そうですね。

中川瑛さん
それが発達特性のケースもあると思うんです。ASDだからあまり共感ができない、優しくできないってわかってたとしても、実際されてる人間って普通にめっちゃきついので。

「もう正直、障害とかなんか関係ない。普通に今私がつらい」ってところにサポーティブに関わるのって難しいですね。けど、同じような仲間と同じような悩みを抱えながらやってる人たちが、あれこれ愚痴をこぼしたりすることは、すごい効果あると思うんですよ。 

つまりGADHAのコミュニティがそうなってるわけですけど。「人に優しくするとか、なんのことか全然わからん」「エスパーしろってことか」みたいな投稿があるわけですよ。

アツ
なるほど。

中川瑛さん
そういうことに対して「わかるー」「エスパー無理だよね」「どうやったらいいんだろうね」みたいなことを話したりするんですけど。

アツ
なるほど。それは例えば共感ってこういうことだよね、優しさってこういうことだよねってわかる多数派がいたとして、それが社会の多数派だったとして、少数派としては共感ってわかんないなっていう、その優しさって何っていう人たちが一定数いると。

それは少ないから共通性を持ちにくいんだけど、そういった人たちが集まっているGADHAみたいな場所だとわかるわかるっていう社会になってる。だから自分がわかってもらえないっていう感覚も癒しやすいし、変容のための努力もしやすくなっていく?

中川瑛さん
本当にその通りだと思います。ただ今はわかりやすく言ったからそう言ってますけども実際にはGADHAにはもちろんいろんな人がいるので。喧嘩になることもあります。「いやそれはおかしいだろ」みたいなことが起きたり、上から目線のアドバイスが発生して喧嘩になってること自体はあるので、別に一枚岩ではないんですけれども。

でもSDっぽい人とか、回避性というかですね、黙っちゃうタイプの人とかいろんな方がいて。GADHAってモラハラDVって外向きに言ってますけど、本質に的にはケアの欠如が鍵って理解してるので、ケアの欠如って解釈を上書きするタイプもそうなんですけど、共同解釈をしないことも暴力だと捉えてるんです。

ケアの欠如だから暴力と捉えてるので、GADHAのなかには結構いろんなタイプの人がいるんです。そのなかで共通点の人たち同士でケアし合うみたいなことになってるかな。

アツ
そこでケアの練習みたいなことしてる?

中川瑛さん
まさにおっしゃる通り、その通りだと思います。

アツ
なるほど、わかりました。ありがとうございます。いろいろ詳しくお聞きしたいんですけど、次回に持ち越ししたいなと思ってて、次回は中川さんのご自身のお話をちょっとお聞きしていきたいなって思ってます。今回はありがとうございました。

中川瑛さん
ありがとうございました。


◾️ゲスト:中川瑛さん
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