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架空書評:市川拓司『いま、会いにゆきます』

※本書評はこの本を読んでない筆者がタイトルのみから連想し、架空で拵えたものです。
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オンラインセックスという愛の形がある。チャネルは問わないが、オンラインで繋がった2人がお互いを言葉で鼓舞しながら、カタルシスを実現するという行為だ。

この本を読むまでは、まさかそのようなセックスが可能なのかと半信半疑であったが、そのピュアで電子的な愛の営みのリアリティが読後、押し寄せてくるのである。愛とは何か、そんな誰も解けないような方程式を真っ向から解きにいくのではなく、解の極地にオンラインセックスをなんとかしてうちたてようという人類史上初の試みとして、本書がいま、私たちの手の届くところに物質化したといえよう。

さて、本書の内容を簡単に紹介しておこう。話の中心人物は、都内でソフトウェアエンジニアとして働く吉崎慎也28歳。足立区の実家暮らしで、彼女もいない、それでいて純朴な青年の唯一の趣味は月に1度の風俗。風俗嬢のマリアに随分入れ込んでいた。しかしマリアの両親の病状が悪化。マリアは実家に戻ることになるが、どうしてもマリアを離したくなかった吉崎はオンラインでもいいからとチャットのIDを渡す。オンラインセックスの提案である。そして、一抹の情けから、音声だけでいいなら…とマリアは吉崎に連絡することを約束する。客と風俗嬢という決して交わることがない関係であったはずの2人が、オンラインになった途端に四六時中24時間声をかけ合い、抱き合い、慰め合う描写が実に生々しい。リアルのそれよりも、濃厚で、飢えた2匹の獣がお互いを甘噛みし続ける…そんな情景なのだ。

そんな絵面が読者には見えているが、じつはこの背景には壮大なカラクリがある。以下はネタバレも含むので、まだ未読の紳士淑女は本書を読まれてから書評に戻ってきてほしい。

マリアのオンライン状態を吉崎が確認すると、吉崎はチャットアプリケーションを通じて通話をかける。2人は音声でお互いを励まし合いながら行為に及ぶのだが、マリアはひとつ制約を設けた。それはビデオ通話にしないこと。つまり、双方姿を見ることはできなかったのである。そして、吉崎はそれでも良かったのだ。
マリアが画面の向こう側にいるかどうかを確認するシグナルは、喘ぎ声しかなかった。これが極めて重要である。

既にマリアに愛はなかったことから、マリアはある画策を行う。吉崎を無下に扱えない気持ちから、常にアプリケーションをオンライン状態にし、吉崎と接続があった場合に自身の喘ぎ声をランダムに再生するプログラムを野良のエンジニアに発注する。いわゆるボットのようなもの。吉崎が聞いていたのは、このランダムにパターン化されたマリアの喘ぎ声だったのだ。そして何を隠そう、このプログラムを作ったのは、オンラインの掲示板でお小遣いがてら業務委託案件を受注していた吉崎本人なのである。彼はマリアのビジネス的なありがとうと喘ぎ声を同時に手にして、自害した。

そして、彼は死ぬ前にマリアと同じようなボットを生成し、アプリケーションに埋め込んだ。吉崎側からもこのボットを繋いだのだ。つまり、永遠に吉崎とマリアは愛の営みを紡いでいる。

ここまで読んで、不快に思う読者も一定数いることを承知であえて美化するのであれば、やはりこれは純愛の物語である。オンラインで2人の身代わり同士が永遠にセックスするという、誰も見たことない次元の純愛なのだ。会いにいけばいいのに…そんななんの仕掛けもないコメントは聞きたくない。テクノロジーに愛を閉じ込めること、そしてその愛ゆえに逝く切なさが封じられた

いま、あいにゆきます

なのである。

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#オンライン #セックス

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