記憶の個室
あれ、このにおいはいつかのあの日の......
なんて経験、なかっただろうか。
人間の記憶とは面白いもので、自分のあずかり知らないところで五感と結びついているものだ。
普段は思い出すことなんて全くないのに、この曲を聴くと小学生のあの時を思い出す、なんて急に記憶の扉が開く。
記憶の中の景色はぼんやりしていて、彩度が落ち、霧の中にあるかのようだ。
古い記憶になればなるほど、自分の奥深くに扉を閉ざして眠っている。
今回は古い扉を久しぶりにノックして、いや、少しだけ入り込んでみようと思う。
私の一番古い記憶はなんだろうか。
霧の中にいくつもの部屋が浮かぶ。
幼稚園で鉄棒に頭を強打したあの日だろうか。
それとも、東京タワーに連れて行ってもらったあの日だろうか。
たぶん、一番古い記憶ではない気がする。
まだ奥の方に記憶の扉が見える。
もう少し霧の中に踏み込んで、最も古い記憶と思われる部屋の様子を順番に見ていこう。
一つ目は白く清潔な部屋だ。
病院である。
私は肺炎か何かで入院していたことがある。
ベッドの上で母親と一緒に座っており、ポケモンが描かれたカレンダーを一緒に見ていた。
そのカレンダーは毎日一匹ずつキャラクターが割り振られているものであった。
おそらくまだ日付けの認識が完璧にできていなかったであろう私に、母は「ポワルンの日に退院だよ」と教えてくれたのだ。
(たんいんってなんだろう)
と思っていたような気がするが、それがなんとなく嬉しい日であることは母の表情やら声色やらで理解していたのだと思う。
この景色は嬉しい記憶として私の中にとどまっている。
そのワンシーンしか覚えていないが、それからポワルンを見るたびに、私は母の言葉を思い出す。
続いて、引っ越す前の家の部屋。
ある日の夕食のことだ。
台所に立つ母と、料理の出来上がりを待つ私たち姉弟。
「お皿運んでー」
母の呼ぶ声が聞こえる。
おそらく姉に向けて言ったのだろう。
私はまだ幼く、お皿を上手に運べるかはわからない年齢だった。
しかし、料理を運ぶお手伝いくらい、もうできる!と意気揚々とお皿を運ぼうとする私。
熱いから気を付けるんだよ、と心配そうに声をかけてくる母。
はーい!などと元気のいい返事をし、熱々の肉じゃがの乗ったお椀を持つ。
......結果、肉じゃがは落ちた。
それも自身の足の上に。
そのシーンのことは、スローモーションがかかったような映像として鮮明に覚えている。
あ、落としちゃった。
と、右の足の親指に乗った肉を眺め、足の指を伸ばしたりしている。
すると遅れてやってきた熱い!という感覚に襲われた。
そこで記憶は途切れているが、衝撃的な出来事だったからだろう、今でもたまに思い出すのだ。
文字を初めて読んだ瞬間を覚えているだろうか。
私は初めてカタカナを読めるようになった瞬間であれば、いまでもドアノブに手をかけられる。
私はポケモン大好き少年だったので、すべてのキャラクターの名前を憶えていた。
なので、
この画像を見れば、これは「ぴかちゅう」だな、とわかるわけだ。
そしてポケモン図鑑を見れば、キャラクター画像の下に「ピカチュウ」と名前が書いてある。
もちろん私はこの黄色いねずみがピカチュウであることを知っているので、下に書いてある文字が「ぴかちゅう」と書いてあることが分かるという寸法だ。
ポケモンにはたくさんの種類がいるので、ほぼすべてのカタカナを覚えることができた。
ちなみに先ほどはピカチュウの例を紹介したが、実際はワニノコというキャラクターで文字を読む法則を見つけた。
今になってみれば、これはすごい発見だ!という嬉しさや誇りを強く感じたのだと思う。
そして、私が今見える記憶の扉で、おそらく一番深い位置にあるのがこの部屋。
私は姉の友人の家へ一緒に連れていかれていた。
姉はもちろん姉友人と遊んでいるために、私は遊び相手がいないはずだった。
しかし、姉友人のお兄さんがとても優しく、幼い私の相手をしてくれていた。
おそらく小学生高学年だったのではないかと思う。
あんなに子供にやさしくできる小学生なぞ、なかなかいないだろうと今でも思う。
そこでの遊びはとても楽しいものだった、と記憶している。
たしかポケモンのゲームをやっていたはずだ。
とにかくたくさん遊んでもらっていた。
しかし、その楽しい遊びは母親の一言で中断される。
「おむつ交換するよー」
私は、交換する必要なんてないのに、と不満げだった。
車に連れていかれ、その中でおむつチェックがなされる。
「あれ?交換する必要ないじゃん」
そんなことを言われ、だからいらなかったのに、と思ったのであった。
おそらくこれが、今見える範囲で一番古い景色だと思う。
強い不満がここまで記憶に残っている理由なのだろうか。
正解はわからないが、ともかくこの記憶たちはたしかに私の中にあるのだ。
霧の中で見つけられなかった扉がたくさんあるだろう。
これからふとした瞬間に再び開くかもしれないし、生涯閉ざされたままかもしれない。
それでも、今の私の体、思考、心を作ってきたのは扉の中のたくさんの私なんだな。
なんて考えるゴールデンウィークも悪くないか。