#8 決戦は金曜日(後編)
諭に会うことは考えておらず、彩世は靖国通り方面に向かって歩き、タクシーを拾って自宅マンションへと向かった。自宅前でタクシーを降りた時、携帯が鳴った。画面を見ると、諭からだった。彩世は躊躇いつつ、電話に出た。
「仕事は終わったか?」
「…悪い。今日、お客とアフターに行くことになったから、会えなくなった」
「……そうか。お前、今、どこにいる?」
「どこって、お店だけど」と言った時、横から人影が見え、こちらに近づいてくるのが見えた。
「…どうして」と彩世が驚いて、声を上げた。
「剛にお前の住所を聞いた。どうやら…アフターじゃなかったみたいだな」
彩世は観念して、電話を切り、諭の方に歩を進めた。
諭は先ほどの出で立ちと異なり、髪を後ろに束ね、白のTシャツに青いジーンズを着ていた。
「俺の部屋で話をするか?」
「いや、場所は予約してある」と言い、諭は青梅街道を新宿方面に歩いていく。諭は後ろを振り向き、彩世に声をかける。
「どうした?早く来い」
彩世は諭の後について、歩き始めた。諭は横断歩道を渡って公園通りを歩き、ヒルトン東京に入っていく。彩世は面食らったが、覚悟を決めて諭の後についていく。諭と彩世はエレベータに乗り、諭は20の数字が書かれたボタンを押す。エレベータを出て、2006号室の前で止まり、諭はカードキーでドアを開けた。彩世は諭の後に続いて、部屋に入った。部屋の明かりはついており、そのまま進むと、左の壁にキングサイズのベッドが一つ、右の壁側に二人掛けのカフェテーブル、奥にソファが置いてある。
「座れよ」と諭は右側にあるカフェテーブルを彩世に勧めた。
彩世は言われるままにカフェテーブルの手前の椅子をひき、腰かけた。テーブルにはシャンパングラスが2つとチョコレートが置いてあった。諭は片手にモエ・エ・シャンドンのボトルを持って、それぞれのシャンパングラスに注いだ後、奥側の椅子をひいて腰かけた。
諭はグラスを手に持ち、「今日の出会いに乾杯」と言い、彩世のシャンパングラスにグラスを合わせた。
「…恥ずかしいから、止めてくれる?そもそも、何で、お店に来たんだよ?」
「お前を驚かそうと思って」
「あんたの行動が予想外過ぎて、びっくりしたよ」
「俺もお前の接客見て、びっくりしたけどな。あんな甘い台詞を言ってるなんて」と諭が笑う。
「女の子に金貰っているんだから、普通の男が言うようなこと言っても、ときめかないだろ?」
彩世はシャンパングラスを傾け、一気に飲み干した。諭がモエ・エ・シャンドンのボトルを傾け、彩世のグラスに注ぐ。
「今日は、何でホテルを予約したんだ?」と彩世は諭に聞いた。
「お前、俺に言っただろ。俺と夜に会う時は一緒に寝るって」
「…その約束って、俺とあんたの間で合意してないと思ったんだけど」
「お前が帰るなら、それはそれで構わない」
「ふぅん」
彩世は、諭の余裕な振舞が気に食わないと感じた。まるで諭に帰らないだろうと思われているような気がして、こないだの話を聞いて、早く帰ってやろうと思った。
「…こないだの話を聞きたいんだけど」
諭は人差し指を彩世の口に当てた。まるで、それ以上、聞くなというような素振りに彩世は諭を見つめた。
「今日は…お前としたい」と言い、諭は彩世の唇に軽く口付けた。彩世は驚いて、後ろに下がる。
「それ、本気で言ってる?」
「そうだけど」
「俺のこと、好きじゃないのに?」
「俺は興味がなければ、連絡しないし、お店にも行かない」
「…あんたは、俺を恋愛対象として見てないだろ?」
「最初は、剛から引き離したいとしか、思っていなかった。でも、お前と一緒に過ごして、気持ちが変わった。お前を困らせるつもりはないし、もちろん、タダとは言わない」
諭が立ち上がって入り口のドア脇にあるカバンを開け、封筒を手にして戻ってくる。
「これで、どうだ?」と言い、彩世に封筒を差し出す。
彩世は諭から封筒を受け取り、封筒の中を見た。封筒の中には一万円札が数十枚入っていた。彩世は諭に封筒を突き返した。
「…これは受け取れない。剛に聞いたかもしれないけど、俺、枕は止めたんだ」
「これがあれば、俺とする理由を他に考えなくていいだろ?」
彩世は断る理由を考えようとするが、お店で飲んだお酒も効いて、うまく頭が回らない。彩世にとって、諭は剛の兄ということを除いては、魅力的であり、抗う術がなかった。彩世の考えがまとまらないうちに諭は両手で彩世の頬を包み、彩世のおでこや目にキスを落とした。その後、唇にキスをして、舌で彩世の唇をなぞる。彩世はそれに呼応するように諭の舌を唇でついばんだ。諭は彩世の胸や首筋を撫でまわし始めた。彩世は立ち上がり諭の華奢な体を抱き寄せ、ベッドに押し倒した。諭は体を起こし、左手で彩世の頬に触れ、彩世に口付ける。彩世は、諭の唇を覆うように口付ける。「はあっ…」と諭の口から喘ぐような息が漏れた。その声が彩世の心を激しく掻き立てる。彩世は、目を開けて諭の目を見た。諭は、熱っぽい視線を彩世に向けている。頬が蒸気し、彩世を欲していることが分かる。この男が自分に欲情していると思うと、彩世は自分の気持ちを抑えることが出来なかった。彩世は、諭を強く抱きしめ、その首筋に噛みつくようなキスをする。諭の色っぽく艶やかな声が室内に響き、彩世の思考は完全に停止した。
翌朝、彩世はヒルトン東京の一室で目覚めた。いつも目覚めが悪い彩世だったが、頭がすっきりと冴え、体が軽くなったような感じがした。遠くでシャワーの音が聞こえ、彩世は現実に引き戻される。彩世は昨日の夜のことを思い出し、いたたまれない気持ちになった。その時、諭がタオルで髪を拭きながら、バスルームから出てきた。
「…起きたか?」
「ああ」
「なんか、食べるか?」
「いやいい。…あのさ」
「何だ?」
彩世はカフェテーブルに置いてある封筒を指さした。
「やっぱり、それは受け取れない」
「何で?」
諭に理由を聞かれ、彩世はくぐもった声で返答した。
「……お金を受け取った方が満足するのは、俺のポリシーに反するから」
「お前が満足してくれたようで嬉しいよ。俺も気持ち良かった」
諭から向けられる柔和な笑顔を見て、彩世は『このタイミングで笑顔を向けるって反則だろ』と心の中で毒づいた。諭は、彩世の隣に座り、軽くキスをした。
「それは、受け取ってくれ。次回分の手付金として」と悪戯そうな目を彩世に向ける。
「今、ここで使ってもいいんだぞ?」と彩世は言った。
「いや、お楽しみは後に取っておかないとな」諭は不敵な笑みを浮かべた。
彩世はベッドから降りてバスルームに向かった。
「また今度、連絡する」と諭に後ろから声をかけられる。
彩世は返事の代わりに片手をあげて、左右に軽くひらひらと振った。