#40 クラブ「哀」編(2)
彩世は、新宿歌舞伎町までタクシーで向かい、クラブ「哀」に着いた。時刻は、20時半を回っている。
裏口からスタッフルームに入り、シャワー室に駆け込んだ。熱いシャワーで、まだ完全に醒めきっていなかった頭が次第にしっかりとしてきた。タオルで体を拭き、バスタオルを腰に巻いて自分のロッカーのドアを開けた。スーツとシャツを取り出して、隣にあるパウダールームのドアを開けた。
「彩世さん、どうしたんですか?その恰好…」とヒカルが驚きの声を上げた。
「…寝坊してしまって、急いでるんだ。髪の毛、セットしてくれる?」
「分かりました」
彩世は、シャツを着てズボンを履き、椅子に座った。ヒカルがスタイリングをしている間、近くにあった化粧水と乳液で顔を整え、携帯を手に取って受信メールを確認する。女性客からのメール以外は来ていなかった。
「そういえば、今日、新人が入ってきたんですけど、すごく綺麗な人でしたよ」
「…その人って、髪が長い人?」
「あ、そうです。彩世さん、知っているんですか?」
「まあな。今、どこにいるか知っているか?」
「さっき、フロアを覗いた時は、夢幻さんの席にヘルプで入っていましたよ」
「…そうか」
「はい。できましたよ」
「サンキュー」
彩世は、立ち上がって、早足でフロアの方に向かった。
フロアに入ると、いつも通りに賑わっていた。りゅうの席では、コールが行われていた。そこを横切っていき、夢幻を探す。奥の方に行くと、人だかりが出来ている場所があった。彩世がその人だかりをかきわけると、諭が女性の手に口付けをしている姿が見えた。彩世は、思わず諭の腕を掴んだ。諭が彩世の方に顔を向けた。
「…すみません。こいつ、他の卓に呼ばれているので、失礼します」と彩世は言った。
「え~、そうなんだぁ」
「葵さんと一緒に過ごせて、楽しかったですよ。楽しんでいってくださいね」と笑みを浮かべて諭が言った。
「諭さんもまた、遊びに来てね」
諭は、葵に一礼をして、人だかりを押しのけて、去っていく。彩世は、諭の後を追うようにして出ていった。
「諭、待てよ」
彩世は、諭の腕を掴むと、諭は歩みを止めて、振り返った。
「…その、お店出てくれて、ありがとう。助かった。もう大丈夫だから」
諭は、彩世の顔をじっと見つめた。
「大丈夫そうだな」
彩世は、諭と一緒にスタッフルームに入ろうとすると、圭から声をかけられた。
「彩世さん、彩世さん指名で新規のお客様がお見えになっているんですが…」
「わかった。すぐ行く」と彩世は圭に答えた。
「俺も行こうか?」と諭が彩世に言った。
「いや、あんたはもう帰っていいよ。ほとんど、休んでないだろ?」
「俺がいると邪魔か?」
「…そうじゃないけど。あんた、お酒はそんなに飲めないだろ」
諭は、彩世に対して、それが何か問題かとでも言うような顔で笑った。
「お酒なんか、飲まずとも、女性を楽しませれば良いだけだろ」
「そりゃあ、そうなんだけど」
諭の不敵な自信に気圧されて、彩世は諭を帰すチャンスを逃してしまった。
彩世は、圭に案内されて、彩世を指名した女性客のところにやってきた。
「はじめまして。彩世です。ご指名いただき、ありがとうございます。えーと…お名前を聞いてもいいですか?」
「あ、カスミです」
カスミと名乗る女性は、頭にボンネットを被り、レースがたくさんついた黒いワンピースを纏っている。
「素敵なドレスですね」と彩世が褒めた。
「ドレスだけですかぁ?」
「いえ、貴方も十分にかわいいですよ」と諭がかがんで、カスミと同じ目線で答えた。
「へぇ~…綺麗な顔をしてますね」とカスミが言った。
「いえ、顔が綺麗なだけですよ」
「……なるほど。それで、どうやって彩世さんを奪ったんですか?」
カスミが急に低い声を出したので、彩世は驚いた。
「君は…剛の友達の、内田くんだったか?」と諭が言った。
「え?あきらなのか?」と彩世がカスミを見つめる。
「そんなに、すぐに分かってしまうんですね」
「俺は、医者だからな。骨格とかで、だいたい分かるよ」
彩世は内田の向かいに座った。
「今日は、どうして、ここに来たんだ?」と彩世はグラスに氷を入れて鏡月と水を入れてマドラーでかき混ぜた。
「あ、二十歳になってないので、お酒飲めませんよ~」と内田が言った。
その時、諭がオレンジジュースの入ったグラスを内田の前に置いた。
「ありがとうございます!さすが、剛様のお兄様」
「…俺は、お前のことは客だと思ってないからな」と彩世が言った。
「じゃあ、乾杯しましょうか」と諭が言う。
彩世は鏡月の水割りの入ったグラスを持ち、諭は烏龍茶の入ったグラスを持ち、内田のグラスに近づけた。
「…僕がなんで、ここに来たのかって聞いたよね?」
「ああ」
「…剛様のお兄様は、分かりますか?」
「さあ、彩世に会いたかったのは分かるけど」
「なんで、剛様と別れたのですか?」と内田は彩世に聞いた。
彩世は、ちらっと諭の顔を見た。諭は、変わらず微笑んでいる。
「何を勘違いしているのか、分からないけど、俺が一方的に好きだっただけで、剛と付き合っていないぞ」
「好きだったということは、今は好きじゃないんですね」
彩世は、内田からの質問にどう答えるべきかをしばらく考え、ようやく口を開いた。
「好きだけど、一番じゃない」
「じゃあ、誰が一番なんですか?」
「…お前に言う必要ないだろ」
「そのことを聞くために、彩世に会いに来たんですか?」と諭は言った。
「違います。彩世さんが剛様と付き合っていなかったとしても…僕は剛様を傷付けた彩世さんを許せません」
「お前に許されても意味がないだろ。そんなことを言いに来たのか?」
彩世は、呆れた顔で内田を見る。
内田の顔は、目に見えるように真っ赤になった。諭は、内田の肩に手をかけた。その途端、内田は諭の両頬を両手で掴み、キスをした。
「お前!」
彩世は席を立ち上がり、内田に掴みかかろうとしたところを諭が彩世を制す。
「彩世。場をわきまえろ」
彩世は、諭に言われて、周りを見回した。近くの席のホストとお客様がこちらをチラチラと見ている。彩世はそのまま座り直した。
「どういうつもりだ?」と彩世は内田を睨みながら問いかけた。
「したかったからしただけですよ」
彩世は、内田の言葉にいらだちを覚えたが、諭は涼しい顔をしている。彩世はグラスに鏡月と水を注ぎ、マドラーでかき混ぜて一気に飲み干した。
「だったら、彩世さんは、どうして剛様の胸にキスマークつけたんですか?」と内田が彩世に聞いた。
「お前に答える気はない」
その時、諭は内田を抱きしめて内田の首に唇をあてた。内田はもがいて諭を離そうとするが、なかなか離れない。彩世が驚き、内田と諭を引き離す。内田の首筋に赤い痕が見える。
「な…何をするんですか?」と内田が言う。
「あれ?てっきり、して欲しいのかなと思ったんだけど」と諭は笑顔で応えた。
内田は、諭を恨めし気に見つめた後、席を立ち、お店を去ろうとする。彩世と諭は、内田の後に続くようにお店の入り口まで向かう。
「またのご来店をお待ちしています」と諭が言った。
内田は、その言葉に振り向いて、諭と彩世を代わるがわる見た。
「もう、二度と来ません」
彩世と諭は、内田に向かって手を振った。その姿を見て内田の顔が怒りでみるみる赤くなる。内田は、走ってお店を出ていった。彩世と諭は、お互いに顔を見合わせた。その時、彩乃が駆け寄ってきた。